夜明けのハントレス 第25回 河﨑 秋子 2025/02/27
エンタメ 読書 【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、狩猟免許を取得し、二年目の猟期が始まった。マチは痩せたクマを撃ったことを後悔する。その様子を見た堀井銃砲店のお婆さんの勧めでアヤばあを訪ね、山へ入ると、そこには三石勇吾が倒れていた。勇吾はマチに侮辱的な言葉を掛け、険悪な雰囲気に。数日後、マチが動物園を訪れると、勇吾が飼育員として働いていた。
一月中旬。新年の華やかさも落ち着いてきた週末に、マチは北海道東部の標茶しべちや町(しべちゃちょう)にいた。
新田ら先輩猟師に誘われて、週末を利用して鹿のグループ猟にやって来たのだ。
事前に役割分担をし、マチは熊野と二人、牧草畑(ぼくそうはたけ)と雑木林(ぞうきりん)の境目(さかいめ)で、鹿が追われてくるのを待っている。
雪の上に断熱シートを敷き、充分な防寒着とカイロで対策してきたとはいえ、地面からの冷気と、冷え込んだ空気が全身を冷たく刺していく。
「うへえ、マっちゃん見てこれ。今朝、十五度だって。マイナスの」
熊野がスマホの画面を見せてきた。マチも思わず「うわあ」と悲鳴を上げる。冷えるとは思っていたが、気温を出されると余計に寒さが増した気がして、手袋を脱いで懐に入れたベンジンカイロで指先を温めた。
まだ無線で連絡はこないが、もうそろそろ勢子隊(せこたい)がスノーモービルで鹿を追い出してくる頃だ。マチはいつでも対応できるように指先を温めてから、耳を覆うラビットファーの耳掛け(みみかけ)を浮かせる。すぐに冷たい空気が差し込むが、エンジン音はまだかと耳を澄ませた。
道東は札幌と比べて降雪量は少ない、と聞いていたが、スノーシューがなければ歩けない程度に雪は積もっている。とはいえ、雪原の表面では枯れた牧草の束が雪からのぞき、風に揺られている。風は弱く、空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。
ほぼ一面の、青と白。気温は低いのに、雪の結晶一粒一粒が陽光を反射し、真夏のビーチよりも眩しい。事前の先輩たちの忠告通り、日焼け止めとサングラスを用意してきて正解だった。
視界の端で、一匹のキタキツネが雪原(せつげん)を歩いていた。たっぷりとした冬毛を蓄え、毛先を太陽に反射させながら、どこか俯くように、慎重に足を進めている。
ふと、キツネがぴょんと高く飛び上がった。そのまま、雪に頭を突っ込むかたちで着地する。直後、雪から顔を上げたキツネの口元には、小さな黒い塊が咥えられて(くわえられて)いた。隣で熊野が、ひゅう、と細く息を吐いた。
「我々人間風情もあやかりたいねえ」
「ですね」
キタキツネは踵(きびす)を返して雑木林(ぞうきばやし)へと姿を消した。上空ではいつの間にか、一羽の猛禽(もうきん)が円を描くようにして飛んでいる。狙われないところで、ゆっくりと食事にありつくのだろう。
マチはもう一度耳掛けを浮かせて、目を閉じた。かすかに虫の羽音に似た音をとらえる。同時に、肩口(かたぐち)に装着した無線がザッと鳴った。
『モービル班だ。熊ちゃんのとこに向かってる。五頭。もうすぐ畑に出るから、頼むよ』
「了解」
マチはボタンを押し込んで短く返答すると、すぐに銃の準備をした。隣で熊野も手早く支度する。今回は伏射(ふくしゃ)だ。砂袋の代わりに雑木林で適当な丸太の切れ端を見繕い(みつくろい)、銃身を預ける。
耳掛けを外さなくてもエンジン音が聞こえるようになった。スコープで狙う(ねらう)場所を確認する。
スノーモービルが木々の間を抜け、遮るものがなくなったのか、音がクリアになった。五頭の鹿たちが雪煙(ゆきけむり)を上げながら目の前を通り過ぎていく。地響きならぬ雪響きがマチの腹へと伝わってきた。
鹿たちは突然機械に追い立てられ、待ち構えているこちらには全く気付いていない様子だ。それでもマチは、息をつめて気配を殺した。エンジン音の接近が止まる。鹿たちは追われていないにもかかわらず、勢いを殺さずに走り続けていた。
銃口が狙う先は、放牧地の小山を背景にしている。安全のためのバックストップとしては十分。鹿がスコープに映る直前に、引き金にかけた指に力を込めた。
パン、パンパン。
熊野もマチも、二の矢、三の矢を厭わない(いとわない)。なるべく頭か首を狙うが、これだけの数がいると一頭一頭への正確な射撃よりは、逃がさない(のがさない)ことを優先する。白い雪山(ゆきやま)をバックに、鹿たちは次々と雪原(せつげん)に倒れ込んでいく。
五頭全てが横たわったことをスコープで確認した。
「よっし、大成功」
熊野が身軽(みがる)に体を起こし、うきうきとした足取りで鹿へと近づく。マチも後を追った。スノーモービルも再び動いて近づいてきた。
「おー、やったな。全頭きれいに」
スノーモービルから降り、ゴーグルを外した新田が片手を上げた。熊野、マチの順でハイタッチをする。厚い手袋がぶつかり合う、ぼふぼふという音が響く。祝福が終わると、新田はすぐに無線で仲間に『Cポイントでとったどー』と、少しおどけた報告をした。
運転席から降りた男が鹿に近づき、「いや、見事なもんだ」と感心している。今回の案内役で、この牧場の持ち主である佐々野だ。新田とは大学時代の同級生ということだ。
「ササちゃん、他のポイントで待機してる連中、連れてきてくれる?」
「了解」
新田に言われて、佐々野はスノーモービルに乗ってすぐに去っていった。その姿が遠ざかったのを確認すると、新田は手袋をさっと取った。
そして、死んだ鹿に近づき、両手を後ろ足の太腿(ふともも)の間に差し込む。
「ううう、しばれた。乗っけてくれてる佐々野には言えねえけど、スノーモービル、めちゃめちゃ寒ぃのよ。ああ、あったかい。生き返る」
まるで温泉にでも浸かったような新田のため息に、熊野とマチは笑った。
「うちらも待ってる間じっとしてるから相当寒かったんですけど。むしろスノーモービル乗ってんの楽しそうでいいなって。ねえ、マっちゃん」
「ええ。でも、新田さん見てると体感気温、めちゃくちゃ寒いみたいですね」
「若ぇのは気楽に言ってくれるよ……」
あはは、と笑い合ってから、三人とも鹿の血抜きと解体に取り掛かる。ほぼ無風(むふう)で好天(こうてん)に恵まれた雪原(せつげん)の中、撃ち漏らしもなく成果は五頭。上々だ。雰囲気はこの上なく明るい。
マチは一頭目の胸元にナイフを入れて血を抜くと、手袋を脱いで前足の付け根、人間でいう脇の下に手を入れてみた。温かい。その温もりにほっとすることで、自分の体と心が随分冷えていたことに気付いた。
「じゃ、一年最初の狩猟、その喜ばしい成果を祝して、乾杯!」
新田の音頭で、皆それぞれ笑顔でグラスを交わす。夜、鹿撃ちを終えた一同(いちどう)は投宿(とうしゅく)しているペンションの食堂で、上々の成果を喜んでいた。
マチが撃った場所以外でも、その後二か所でスノーモービルの追い込み猟が成功し、全部で十三頭の成果があった。全てをその場で解体し、必要な肉を切り出して各々自宅まで発送するのは骨だったが、疲れと寒さ以上に『皆で狩りをやり遂げた』という達成感と高揚感があった。
マチもほっとしてビールや美味しいオードブルを堪能していた。
よく見知っている顔ばかりということもあり、初めて来た場所だというのに居心地がいい。木のテーブルにベンチ、並べられたオーナー夫妻心づくしの料理という、宿の雰囲気もゆっくりできる理由だ。
とんとん、とマチは肩を叩かれた。振り返ると、佐々野がビールを持ってにこにこと笑っている。グラスを持つ前に、ベンチに割り込まれて本人の意図を察した。慌てて尻を浮かし、隣に一人分のスペースを作る。佐々野は新田の隣を占めて酌をした。
「やあ今回は、ほんとありがとね新田くん。助かるわ」
「いや、礼言うのはこっちの方。ササちゃんのとこは快く招き入れてくれて、ありがたいよ」
「なんも。実際、うちらのとこだと人手足りなくて。せっかく害獣駆除(がいじゅうくじょ)の枠作ってもらっても、撃つ人間足らんかったら、どうしようもないのよ」
同級生だという気やすさで、率直な会話が交わされていく。
「ほんと、札幌や石狩もそうかもしれんけど、道東はもう、鹿、わや。増えて増えてしゃあないのさ。採草地(さいそうち)食われんようにって鹿柵張っても、周りの木の皮ぐるっと食べて山だめんなるし」
「ああ、確かに大変だよね。鹿も増えて、クマも個体数(こたいかず)増えてんでしょ」
「そう。クマ。この辺はまだましだけど、うちの農協の組合員には去年、育成の若牛(わかうし0、ケツ齧られたのがいたって、三頭」
心底(しんてい)困った、というような佐々野の言葉だったが、ケツ(尻)齧られた、という表現に思わずマチは「んふっ」と笑ってしまった。
「笑いごとでないんだよお」
ぐるん、と佐々野は上体をこちらに向けた。思わず、「ごめんなさい、つい」とマチは両手を合わせる。
「牛がお尻齧られたら、死んじゃうんですか」
「いや、すぐ死ぬようなことないけどさ。抗生物質ガッツリ入れないとないし、カンタンに完治するもんでないから、大抵これ」
佐々野は右手の親指で自分の首を切る仕草をした。淘汰(とうた)。仕方のないこととはいえ、現実の厳しさにマチの顔は強張る。
「保険はかかってっけどさ。でも、金の問題じゃなくて、やっぱ牛飼いはこんなことで牛死なせたくないじゃない」
わかります、などと安易に言えるはずもなく、マチは曖昧に頷いた。アヤばあのところや石狩方面の他の地域でも鹿害で農家が苦労している話は多く聞いてきたが、クマに関してここまで生々しい話は初めて聞いた。
「あの、……全然知らないのでおかしなこと聞くかもしれませんが、クマが増えたら、その影響で鹿の数って減ってくれないものなんでしょうか」
控えめに尋ねると、佐々野は腕を組んで「そうなってくれりゃどんだけいいか」と大げさな溜息を吐いた。
「増えた鹿ばクマがガンガンとっ捕まえて食ってくれりゃあそれにこしたことないんだけど、実際はクマって元気な鹿取って食えるほどじゃないらしいんだよねえ。だから、ほら、鹿増えすぎて交通事故とか列車との接触とか起きるしょ。あれで放っておかれた鹿の死体食って、肉の味覚えて、で今度は鹿より大人しい牛やら馬やら狙うパターン、結構あるらしいのよ」
佐々野の向こうで、新田もうんうん、と困った顔で頷いている。複雑な事情の一端(いったん)はマチも色々と教わってきている。答えが分かっていて質問した部分もあるが、当事者からこうして語られる現実はあまりにも生々しい。
「だから、こうして新田くんらに来てもらって鹿撃ってもらっても、内臓やら残ざん渣さやら、クマの餌になんないようちゃんと持ち帰ってくれるから、助かるのよ」
なー、と佐々野は新田の肩に腕を回した。確かに、新田が指導するグループはその辺りの処理に厳しい。クマが生息している地域では特にだ。春から秋は手間をかけて土に埋め、冬はビニール袋に入れて車まで持ち帰る。
正直、かなりの手間だが、佐々野のようにクマが生きる場所で生活している人のためには、大事なひと手間なのだ。
鉄砲のあるなし。クマの生息区域に住んでいるかどうか。野生動物によって失われるものがあるか。あるいは、向こうを害することがあるか。一括り(ひと‐くくり)にニンゲンといっても、立場の違いで得るもの失うものが何一つとして同じでない以上、自然に対する考え方も一括りになんてとてもできない。そして、猟師の考え方だって、順法精神を除けば心を同じにすることは簡単ではないのだ。
疲れのせいか、マチは半分からになったグラスを手にぼうっと考えていた。そのグラスに、いきなりなみなみとビールが注がれる。隣の佐々野だった。
「お嬢ちゃんはさ、この辺まで撃ちに来たのは初めて?」
「はい。夏に旅行に来たことはありましたけど、冬に来たのも鹿撃ちに来たのも初めてです」
へえ、と佐々野は大げさに驚いた。
「いや、みんな厚着(あつぎ)してるから誰が誰か分からなかったけど、帽子から尻尾(しっぽ)出てたのお嬢ちゃんだけだよね」
帽子から尻尾。ひとつにまとめた髪を狩猟用キャップの穴から出していたのを言われているのだ、と気づいた時には、ばんばんと背中を叩かれていた。
「いやあ、解体見てたら、尻尾の人上手だな、と思ってさ。さすが新田くんの秘蔵っ子だね」
まあね、と誇るでも、そんなことない、と否定するでもなく、新田は苦笑いをしていた。秘蔵っ子(ひぞうっこ)云々はいま佐々野が勝手に言い出しただけだろう、と判断して、マチも曖昧に笑う。上機嫌なのは結構だが、お酒が少し回りすぎてませんか、と忠告する言い回しを頭の中でシミュレートしてみる。その間にも、佐々野は「いやほら、最近さ」とビールをあおった。
「多様性っつって、いろんな人いるって言うじゃない。体と心の性が一致しない人とか。いや、俺は別にそういうの普通にいいと思うんだけど」
いきなり何を言うんだろう。突然持ち出された話題と、佐々野のややねっとりとした視線がかみ合わなくて、マチは言葉をひねりだせない。
「どうなの。男に交じって鉄砲撃ちして、バラすのも全然平気で。お嬢ちゃんもそういうのだったりすんのかい? どっち?」
「ササちゃあん」
新田が声を荒らげるでもなく、佐々野の肩を掴んだ。声も明るく、怒っている気配はない。
「ほらさっき、孫何人て俺に聞いてたっしょ。スマホの写真探してたら、やっと見つけた。ほらこれ、三人。元日に撮ったやつ。めんこいべ?」
新田はそう言って佐々野の首に腕を回すと、むりやりスマホの画面を見せつけた。その毒のない微笑みが却って頼もしく、マチは密かに息を吐いた。
「俺ら爺さんの年代になったら、若いのはもう男でも女でも、よくできたのもきかねえのも、どんなんでもめんこいよ。それでいいべや」
な、という新田の柔らかな強要に、佐々野は「お、おう」と戸惑いながら答えていた。