夜明けのハントレス 第26回 2025/03/06
【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、狩猟免許を取得。就活も終え、二年目の猟期が始まった。マチは、山で遭遇した痩せたクマを撃ったことを後悔する。その様子を見た堀井銃砲店のお婆さんの勧めでアヤばあを訪ね、二人で近くの山へ入ると、そこには三石勇吾が。勇吾はマチに侮辱的な言葉を掛けたのだった。年が明け、マチは新田たちに誘われグループ猟へ。
宴会が終わった後、マチは一人、ロビーで雑誌を読んでいた。大自然に佇むマナーハウス、という触れ込みの宿は静かで心地よい。薪(たきぎ)ストーブと、宿の女将(おかみ)さんが気を利かせて持ってきてくれたホットレモネードが体を温めてくれる。
冬の猟と賑やかな解体作業、そしてその後の宴の賑やかさから心を休めるには、ぴったりの静けさだった。
「おつかれ」
気配を感じるよりも先に声がした。振り返ると、新田が水のペットボトルを片手に立っている。
「皆さんもう休んだんですか」
「明日早いし、年だからね。マっちゃんも早く休みなね」
「はい」
マチは素直に頷きつつ、心は返事ほどに穏やかではない。新田はマチの向かいのカウチに腰を下ろし、頭を下げた。
「さっきの、佐々野のこと、ごめんな。うまくカバーできなくて」
「いえ。新田さんのせいではないし、佐々野さんに悪気(わるぎ)がないのも分かってます」
新田の真摯(しんし)な謝罪に、マチは首を横に振った。
自分は多様性に理解がある、という体で、猟と絡めておかしな探りを入れられた不快感は、もやもやと胸に蟠る(わだかまる)。しかし、佐々野を糾弾するほど怒っている訳ではないし、ましてや新田のせいではない。
ただ、気持ちが悪いだけだ。
以前、三石勇吾に『お嬢ちゃん』『コブ』呼ばわりされた時と異なり、悪意まみれではないというのに、今回の方が不快だ。
新田はもう一度「ごめんな」と小さく頭を下げた。マチも頷く。もうこれで手打ち。明確な解決ではないけれど、明日も前を向いて猟を続けるために、飲み込まなければ。
マチに対してのみならず、他のハンターたちにも新田は今までこうして場を取りなしてきたのだろう。その苦労と気配りに免じて、マチも不満を飲み下すようにレモネードを飲み込んだ。
ただし、言いたいことはある。
自分でも珍しいな、と思いつつ、マチは新田に甘えて腹を割る気になった。
「新田さん。私、自分で思っていたよりも負けず嫌いみたいなんです」
新田は何も言わず、視線で続きを促した。
「男とか女とか、年齢だとか、性自認がどうとか、人からどう思われるかなんて全然関係ないところで、いいハンターになりたいです」
ぎ、と耐熱カップの柄を握りしめていたことに気付いて、マチは自分で思っていたより憤って(いきどおって)いたことに気付く。
「今回みたいに、色々教わりながらみんなで猟に出るの、楽しいです」
「うん」
予想以上に新田が嬉しそうな顔をしたので、マチは続きを語りづらくなる。しかし、沈黙をもって促され、言葉を選びながら再び口を開いた。
「でも、ちゃんと一人で安定して猟に出られるようになりたい、とも思います。上手くて、強くて、いいハンターになれるよう、両方できる自分になりたい」
静かな宣言を終えて、これだな、とマチは思った。思わぬ形でクマを撃った時のように動揺することなく、他人に何を言われても心動くことのないように。
心身ともに強く、揺るがないハンターになりたい。
「両方って、グループ猟はいいとして、一人でも大丈夫なハンターとしては、アヤばあみたいな、かい?」
「ええ、アヤばあさんみたいに。……でも、まったく同じじゃなくて、自分なりに」
新田の問いに、マチは考えながら答えた。アヤばあの、山で女一人、静かに暮らしながら猟をする生活は理想的だ。ただ、それを模倣(もほう)するだけなら意味がない。
「いいね。マルチ(multi)に動けて、フットワークが軽くて、色々な経験を積める」
新田はペットボトルから水を飲み、楽しそうに笑った。その目だけが、一転して険しく(けわしく)なる。
「でも、ただの小器用で身が軽いだけの鉄砲撃ちだけにはなるなよ」
人差し指がマチの顔に向けられる。子どもの、『ばん』という鉄砲遊びの仕草だ。それを新田が行うことの意味の重さを噛みしめて、マチは頷いた。
「状況に応じて色々な人間に柔軟(じゅうなん)に対応することはあっても、自然と動物に対しては絶対に八方美人(はっぽうびじん)になるなよ」
「はい」
応じつつも、多分、自分は『自然と動物に対して八方美人』という言葉について、新田の意図するところを掴み(つかみ)きれてはいないだろうと思った。だから、心にしかと刻んでおく。ペンで書くなんて生温い(なまぬるい)ものではない。鏨(たがね)で刻み付けるつもりで、深く頷いた。
「意欲的に経験積みたいんだとしたら、マっちゃん、忙しくなるな。ただでさえ春から社会人だっていうのに」
「それは……確かにそうなんですよね」
新田の心配はマチにとっては痛いところだった。入社予定のアウトドア用品の販売会社については、勤務条件はさほど厳しくないと認識しているが、実際のところはどうなのか、どんな部署に配属されるかはまだ分からないのだ。
社員に何名かハンターがいるとは聞いているが、それが職務に直結しない、あくまでプライベートでの趣味である以上、ハンターが活動しやすい会社であるとは限らないのだ。
「まあ……うん、何とかなる、と信じてやってみます」
結局、マチとて学校を出てこれから新社会人になろうとする若者でしかない。不安はあるが、頑張る、としか今は言えない。
「マっちゃんに限ってそれはないとは思うけど、社会人になって思うように猟に出られなくなっても、安直に仕事やめない方がいいぞ」
「はい、それはもう」
新田に熊野、ほか先輩たちで安定して猟に出られているハンターは皆、仕事も家庭もきちんとしている人が多い。新田の忠告には説得力があった。
「猟師一本で食っていくのは、実質、かなり厳しいからなあ。猟友会の会長の身で夢のないこと言って申し訳ないが」
「ええ、それは私も分かってるので。それに、仕事としてハンターになったら、なんていうかこう……猟への向き合い方が変わっちゃう気がします。私の場合」
「うん」
うまく説明ができなかったが、新田は察してくれたようで、穏やかに頷いてくれた。世の中にはプロのハンターとして生活をしている人もいるにはいるが、単に肉を食べるため、だけではない職業としてのハンターになることを考えると、マチの場合は現実的な選択肢ではない。
「令和の世の中、一周回ってやりやすいかもしれないけどな、プロハンター。動画配信とか、メディア露出とかでうまくやれば」
「それは……向く人がやればいいと思います。私は無理」
はっはっは、と新田が笑い終えたのを見て、マチは姿勢を正した。
「ということで、社会人になっても、経験を積んで、もっとハンターとして強く成長したいと思います。これからもご指導よろしくお願いします」
「はいはい。こちらこそ、学生時代だけで終わらせないつもりでいてくれて、嬉しいよ。よろしくね」
やっぱり、学生の一時的なお遊びと思われていた部分はあったのかもしれないな、と思いつつ、マチは腹立たしくは思わなかった。むしろ、投げ出す可能性も含めて見守ってくれていた師匠に、ありがたさを感じる。
「とりあえず、前にクマ出た時のリベンジで、もう一回、一人で猟に出てみようと思います。新田さんや熊野さんたちも、グループ猟多いけど、単独もやろうと思えばできちゃうんですよね」
「うーん、俺に関していえば、しばらく単独猟には出てないから、どうだろうな。それはともかく、初めて一人で山入った時にクマ撃っちゃったの、やっぱり普通の経験ではないからさ。ここでちゃんと、リセットして、大丈夫な猟を経験しておくの、大事だと思う。やっぱりあの頃のマっちゃん、しばらく動揺抜けてなかったからさ」
「ばれてましたか」
軽く返事をしつつ、やはり新田は分かっていたのだな、とマチは照れ臭かった。心配をかけて申し訳ないとも思う。
「ま、リセットってことで、前回の場所じゃなくて、アヤばあのところがいいんじゃないかね。なまじ、俺のような年数経ってる人間はあの辺はアヤばあの猟場だって知ってるから、それほど人いないし」
ベテランは他のベテランの狩場(かりば)を把握し尊重していることが多い。ならば、勇吾がアヤばあの山に単独で潜り込んでいたのは、先達を尊重しなかった、ということだろうか。脳裏に浮かんだ余計な人物を振り払って、マチは「はい」と強めの返事をした。
「単独猟リベンジ、行っといで。とりあえずなんでもやってみる、がマっちゃんのいいところだからね」
柔らかく笑った新田に、マチは立ち上がって頭を下げた。いい人の縁に恵まれたと思う。
「じゃ、もう遅いから俺は寝るよ。マっちゃんも、単独猟の計画立てつつ、まずは明日の予定が先。おやすみ」
そう言って自分の部屋に戻っていく新田の背中に、マチはもう一度頭を下げた。
グループ猟から戻ると、マチはすぐにアヤばあに連絡を入れ、一月最後の週末に山に入ることを了承してもらった。
アヤばあの提案で、土曜日から泊まらせてもらい、日曜をまるまる一日、猟に充てる。
土曜の夜、アヤばあ心づくしの料理が食卓に並んだ。自分で作り、保管しておいたという大根、白菜、山菜などのシンプルな煮物が特に美味しい。
「このしいたけ、すごく噛み応えがありますね。もしかして、これもこの家で?」
「そ。家の裏にね、しいたけのホダ木おいてるの。丁度よく大きくなったら取って、ザルにあけて干しとくの」
へえー、と感心してマチは炊き込みご飯を噛みしめた。アヤばあ手作りの干ししいたけは、噛むたびに旨みを感じる。ウドの酢漬けは、切り干し大根は、と、つい質問してしまうマチに、アヤばあは一つ一つ嬉しそうに答えてくれた。
食後のほうじ茶を呑みながら、アヤばあはふう、と区切りのような溜息を吐く。その後はもう目つきが鋭くなっていた。
「明日さ。日の出から午前中は二人で出ようか。昼過ぎて、それでもあんたの体力が余ってるなら、日没まで一人で行ってみるといい」
「はい」
小さく見られているな、とマチは直感した。まず二人で、という話はもちろんありがたい。しかし、その後単独猟に気軽に送り出す、ということは体力を消耗したマチがさほど歩けないと思われているのかもしれない。
「気を付けて、頑張ります」
「うん。気を付けて頑張んな」
余計な会話はなかった。明日は猟に行くというタイミングで、ベテラン猟師につきものの昔話も、こうあるべきという説教がないことも、ある種の信用だとマチは思うことにした。
アヤばあは農家ということもあり、猟があってもなくても夜の九時には寝るという。まさかお世話になる身で夜更かし(よふかし)する訳にはいかず、マチもお風呂を頂くと早々に就寝した。
寝る場所は、息子さんが使っていたという部屋にアヤばあが布団を敷いてくれた。古いアイドルのポスターとやたら大きい学習机が時代を感じさせる。床につき、電気を消す。目を閉じても、時間が早いせいかなかなか眠りが訪れない。窓の外には街灯もなく真っ暗で、車の音も聞こえない。
ふいに、パキッ、と割り箸を割るような音が響いた。マチは思わず瞼を開くが、闇の中では何の気配もない。
幽霊的な何か。マチはその手のモノが怖い訳ではないが、今の音が何かは気になる。思わず、枕元に置いたスマホに手を伸ばした。
『古い住宅』『パキッという音』『何もない』などの検索ワードを駆使して出た回答は、『家鳴り』。木造住宅で使われている木材が温度や湿度で伸縮することによって発せられた音、とのことだ。
なんだ、私の馬鹿。
マチはスマホを置いてくつくつ笑った。人様の家に泊まらせてもらって、何を勝手に幽霊扱いをしていたのか。自分の失礼さと馬鹿さ加減に呆れる。
同時に、まだ自分には知らないことが山とあるし、枯れ尾花で心揺さぶられる程度にはまだまだ弱いのだ、と自覚した。悪い気分ではない。
おかしさが抜けきる頃、意識はゆっくりと眠りに飲み込まれていった。
翌朝は曇り。低い雲が空を覆っている。放射冷却はないので気温はマイナス五度程度だが、うっすら吹き付ける風が頬に冷たい。
「雪、降りますか」
天気予報では一日中曇りだ。だが、地元の人の勘を信じてマチは尋ねた。
「降らないと思うけどねえ。でも、降り出したら無理はしないからね」
「はい」
安全第一。今日はマチもアヤばあも銃を携え、鹿が撃てそうなら積極的に撃つ、ということになっている。一人で猟に出るのが目的と言いつつ、アヤばあがどう猟をするのか、間近で見られるのは楽しみだった。
前回、銃なしで山に入った時と同様に、アヤばあの足元はかんじき。マチは履きなれているスノーシュー。がっちりとした防寒着にハンター用ベストをまとったマチに比べ、アヤばあは前回と同じく、冬の農作業にでも行くような恰好だった。橙色のベストとキャップがなければ、農家のお婆さんが散歩しているようにも見える。
しかし、そのキャップの下の目は、ハンターの鋭さと穏やかさでもって山を眺めている。マチは寒いのに喉が渇いた気がして、唾(つば)を飲み込んだ。