夜明けのハントレス 第28回 河﨑 秋子 2025/03/19

【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは狩猟(しゅりょう)免許を取得。就活も終え、二年目の猟期が始まった。マチは、初めて一人で入った山でクマに遭遇し(そうぐし)仕留めるが、痩せたクマを撃ったことを後悔していた。猟友会会長の新田にその経験をリセットしたほうがよいとアドバイスされ、再びアヤばあを訪ねたマチ。あらためて山に入り、自分が一人で猟に出る意味を確認する。

 大学の卒業式の日がきた。雲ひとつない晴天だった。マチは父方(ちちかた)の祖母(そぼ)が貸してくれた加賀友禅(かがゆうぜん(の振袖(ふりそで)と袴姿(はかますがた)で臨む(のぞむ)。華やかな装いの一方、高揚感はあまりなかった。卒業するからには卒業式に出なければならない、身内が望む格好があるなら拒む理由はない。その程度だった。

「岸谷(きしたに)さーん! 一緒に写真とろ!」

「うん、オッケー」

 式の前、ロビーで友人や、友人ではない同級生が次々と共に写真を撮るよう頼んでくる。マチは拒まない。就職活動時期に磨きをかけた感じの良い笑顔を浮かべもする。しかし心が浮き立つことはない。

「ありがとー、四年間あんまり機会なかったけど、実はいっぺんゆっくり話してみたいなと思ってて」

 ピンク色の振袖と赤の濃淡グラデーション袴がよく似合う同級生が、屈託のない笑顔を向けてきた。学部は違うが同じ授業をいくつかとっていて、見覚えのある顔だ。マチとしても今まで会話する機会に恵まれなかっただけなので、「ありがとー、今度ぜひ」と嘘のない微笑み(ほおえみ)で返す。今更ながらにLINEを交換しながら、ふと思い出した。彼女は確か、マチが途中でリタイアした選択講義を受けていた。えみりはその受講を続けていたはずだ。

「あのさ、えみりって覚えてる? 今日来てるかわかる?」

「あー、岸谷さんと一緒にいた、可愛い系のギャルの子だっけ」

 明け透けな言い方に戸惑いつつ、間違いではないのでマチは頷いた。

「私もあんまり話したことないけど、友達が教職一緒にとってたはずだから、聞いてみるね。ちょっと待ってて」

 彼女はLINEで友人に連絡をとると、すぐに返信がきたトーク画面をマチに見せた。『なんか今日は来れないって』という文字が目に入った。

「そっか、ありがとね。お友達にもお礼伝えといてね」

「うん、わかったー」

 軽いやり取りの後、マチは同級生と別れた。幾人(いくにん)かの友人知人と同じようなやり取りをした結果、えみりは卒業要件は満たしたはずだが、卒業式には来ていない。就職がどうなったかは誰も聞いていない、とのことだった。

 多分、彼女なりの理由があるのだ。仕方がない。そう思いながら、会いたかったな、とマチは思う。お互いに落ち度(おちど)はなく、ただ考え方の違いによって決定的に縁が切れてしまった元親友の顔を見たかった。特に何か話をすることがなくてもいい、彼女が元気であることを確認したかった。

『間もなく、学位記授与式を開始します。卒業生は、会場にご着席ください』

 ロビーに放送が流れる。タイムリミットだ。マチは人でごった返す周囲をもう一度見回すと、諦めてホールへと向かった。小枝が頬を掠ってできた傷のように、ささやかな傷が心の表層に残った。

 その春は入社式、新人研修と、慌ただしく過ぎていった。アヤばあのところで単独猟に挑み(いどみ)、自分なりに掴むものはあったが、その後は猟そのものにも出られないままだった。社会人となるからには、新田らのように仕事と狩猟は理想的な形で両立させねばならない。ここは辛抱、とマチは自分に言い聞かせた。

 マチが就職したアウトドア用品の販売会社は、大手メーカーとの提携やコラボ商品の開発などもあり、今後の成長も見込まれる会社だ。配属が決定する前に、新入社員恒例の登山研修がある。四月上旬の、まだ雪の残る大雪山系(おおゆきさんけい)を二泊三日(にはくみっか)で縦走するという、なかなかハードなものだ。

 とはいえ、登山に精通したベテラン社員がルート決定とリーダーを務めてくれるし、必要な道具類は全て会社から貸与(たいよ)されるので、あとは気合と体力があればそう問題はない。マチを含め六名の新入社員は事前にそう聞かされていた。

「よーし、じゃ、ここいらで休憩しようか」

 初日、登山口(とざんぐち)から四時間経ったところで、リーダーの織田が声を張り上げた。三十代半ばの社員で、登山用品に特化(とくか)した店舗(てんぽう)の副店長だ。自身もかつてヒマラヤに挑んだ経験があり、会社がスポンサー契約を結んでいる登山家のアドバイザーも務めている。顔のつくりが若いために蓄えられた髭がアンバランスな印象だが、それも彼の狙いのうちなのかもしれなかった。

 新入社員の男女比(だんじょひ)は三対三。うち男性二人は山岳部とワンダーフォーゲル部出身ということで、技術は十分。マチはトレイルランと狩猟経験がありこちらもほぼ問題なし。他、三人はほとんど運動経験がないということなので、彼らに合わせてスケジュールは初心者基準になっている。当然、織田は彼らをよく観察し、適切なところで休憩を入れていた。

「ふう。んんー……」

 マチはザックを置いて全身を伸ばした。山小屋(やまごや)に宿泊予定のため、荷物が嵩張る(かさばる)。しかも、狩猟の時には使わないストックを使うので、最初はスノーシューで歩くリズムが掴めず、今まで使っていなかった筋肉に負荷(ふか)をかけた感触がある。

 山の麓(ふもと)は春の気配が濃く、南斜面では福寿草(ふくじゅそう)も咲いているが、標高が上がるにつれ残雪(ざんゆき)が多くなってきた。斜面に生えている木々の幹周り(みきまわり)に、雪がとけてできた隙間があることでようやく冬の終わりがわかる。それでも、真冬に山に入っていた頃と比べ、明らかに力強く照りつける陽光に、マチは目を細めた。

「岸谷さん、元気だね……」

 マチ以外の女性社員の片方、水瀬が倒木(とうぼく)に腰掛けながら言った。華奢で小柄な、可愛らしい感じがする人だ。運動経験は特にないというが、それでも頑張って歩いていた水瀬にマチは好感を抱いていた。

「いやいや、私も結構足にきてるよ。気持ちだけ元気」

 普段と違う歩き方、初めての面々との山歩きに、疲れが出ているのは事実だ。マチは無難な言い方を選んで微笑み、ウエストポーチから塩レモンタブレットを出して水瀬に渡した。他の面々も、飴やキャラメルを交換しながら休憩している。初心者三名も、慣れない山歩きながら楽しそうに見えた。

「よし、みんな水分はとったか。じゃ、行くぞー」

 織田の合図で、全員が立ち上がり、事前に決めていた通りに前後を交代しながら一列になり進む。マチは、自分の前を歩く水瀬に近づくと、ごく小さな声で耳打ちした。

「水瀬さん。余計なお世話かもだけど、さっきの休憩、水飲んだ?」

 水瀬の体が一瞬こわばった気配がある。ゆっくりした山行とはいえ、歩けば人は汗をかく。脱水症状(しょうじょう)を防ぐため、喉の渇きを感じる前に少しずつ水分摂取をするのは、運動中の鉄則(てつそく)だ。

「うん、ごめんね、途中であんまりトイレ行きたくないから控えてて」

 ぎこちなく笑いながら水瀬は言った。山の中にいること、女性であること。水を飲んでトイレに行きたくなったら大変だ、という彼女の懸念はマチにもよくわかる。しかし。

「トイレの心配もわかるけど、携帯トイレあるし、生理現象なんだから恥ずかしがることないよ。それより、あんまり汗かいたように感じなくても、今回貸与されてるウールのインナーはちゃんと吸汗して汗かいたの自覚しづらいから少しずつ……」

 お節介かな、と思いつつ、もし倒れたら大変だとマチは忠告する。それに、織田が新人の能力や適応力をジャッジしている可能性も高いのだ。こんなことで同期を不利にはさせたくない。

「わかった、ありがとうね! 次から気をつける!」

 水瀬はにっこり笑うと、それきり前を向き、ペースを上げて歩き始めた。余計なことを言って怒らせたかな、とマチは反省(はんせい)しつつ、でも倒れられるよりずっといいし、と心の中で言い訳した。

 雪崩(なだれ)の危険を考えて緩い斜面をルートにしていることもあり、その日は休憩を挟みつつ、皆が疲れ果てる前に予定の山小屋に着いた。織田を中心に、手分けしてアルファ米とサバ缶アレンジカレーの夕食を摂る。最初はぎこちなかった新人同士も、休憩時や夜の語らい(かたらい)を経て、お互いに打ち解けていった。

 二日目も、雪山(ゆきやま)とはいえ安全で緩い(ゆるい)傾斜を登り下りして、陽が傾く前に次の山小屋に着いた。予定通りだ。天候に恵まれ、西の平野に沈んでいく太陽が黄金色に輝きを増す。明日も好天に恵まれそうだ。慣れない面子(メンツ)と、かつてないスローペースの旅。マチにとっては鉄砲を担いで(かついで)山に入るのとはまた異なる緊張と疲労を強いられた旅だったが、終わりが見えてくると楽しいものだった。

 夜、夕食と後片付けを終え(おえ)、皆でランタンを囲んで今日の反省と明日の行程確認(こうていかくにん)を行なった。運動経験の少ない三人にうっすら疲れの色が見えるのは勿論(もちろん)だが、登山経験の多い二人まで表情が強張っていたのが意外だった。登山に慣れた人ほど、初心者に合わせて歩くのは難しいものなのかもしれない。

 一人、織田だけが「よーし、あとは自由時間。明日のこと考えて、夜更かしはするなよ」と元気に告げ、男性用に割り当てられた部屋へと引っ込んでいった。

 マチも、明日の最終日(さいしゅうび)こそ気を抜いてはいけないなと、皆にもう寝るとことわってから女性部屋へと向かった。単純な運動量はさほどでもないはずだが、宿泊を伴うアウトドアレジャーというのはキャンプ以外では初めての経験なのだ。狩猟の時はきちんとした宿に泊まるし、山の中に泊まり込んでまで獲物を追うには、日没後(にちぼつご)から日の出前までの発砲禁止時間は長すぎる。

 シュラフ(Schlafsack)に潜り込むと、途端に眠気が襲ってくる。木の床は固いが、会社から貸与されているハイエンドモデルのシュラフはさすがの性能で、ふわりと体を包み込んでくれる。保温性が高いが、それで出る汗を適度に吸収・発散してくれるため、発汗(はっかん)で体が冷えることはない。自分でも買っておこうかな、などと考えていたマチの耳に、甲高い笑い声が届く。

 声は壁の向こう、新入社員の皆がまだ集まっている部屋から聞こえてきた。話が盛り上がり、声が大きくなってきたらしい。早く寝ればいいのに、と思っていると、「お嬢、寝るのめっちゃ早い」という、水瀬の声が聞こえてきた。

 お嬢、というのが自分のことを指しているのだと、マチはなかば直感した。この呼ばれ方をしたのは、中学以来だった気がする。まさか社会人になってから、とうに成人を迎えている人にそう呼ばれるとは思ってもみなかった。

 話し声は水瀬だけでなく、他の面々も大きさを増していく。聞きたいわけでもないというのに、耳が勝手に言葉を拾った。

「お嬢はさすがお嬢って感じ」

「あーね。なんか泰然としてるっつうか」

「実家太くてビジュ良くて趣味がハンティングて何者」

「ライフル持ってて鹿撃ったりするんでしょ? なんか、すごいっていうか、凄まじいよね」

「こわ。怒らせないようにしないと」

 どうやら自分は他の五人から完全に嫌われていたらしい。いや、嫌われているわけではない。好かれていない、が正しい。好かれておらず、疎外され、ネタにされている。ではやはり嫌われているのか。

 怒りとか、悲しみよりも先に、「なんで?」という素直な疑問が立った。自分は水瀬をはじめ他の五人を気遣っていたつもりだし、協力してきた。それでも、それを他人がどう捉えるかはマチが決められることではないとはいえ、理不尽だ。

 理由もそうだが、それより気がかりなのは、織田の判断だ。マチが気づいていなかっただけで、彼らは日中のうちからマチを疎ましく感じていたかもしれない。そして、織田も今、男性部屋で彼らの会話を耳にしている可能性がある。

 ここが学校ならば、仲間外れにする方が悪い、ということになるはずだ。しかし、学校を離れた途端に、周囲に受け入れてもらえない人間が悪い、結局は多数派が正義、ということもしばしば発生する。マチはそういった事例をバイト先で時折見てきた。ジムの会員の女性たちの間でトラブルが発生すると、大抵は数の論理になって、居心地の悪くなった人からやめていくのだ。どちらが正しいかは関係ない。

 木の床の上で、マチは芋虫のように横を向いて身を縮めた。しくじったな、と思う。空気を読んで、明日のことなど考えずに皆の輪に加わっていれば良かったのか、と自問もする。せっかく先に横になったというのに、その甲斐なく眠れない。

 壁の向こうから声はまだ続く。聞く価値など一つもないな、とマチはザックからイヤープラグを出して耳に突っ込んだ。微かに、ざー、ざー、と自分の血流が聞こえる。

 自分の体が生きている音だけが響く中で、マチは同じように自分だけが生きていた現場を思い出していた。アヤばあの山で、一人で猟にでて、大きな雄鹿を仕留めた時のこと。あの時感じた孤独。その場に自分だけが生きて、他の生き物の死を見つめていた静寂。

 あの後、大量の鹿肉をアヤばあのところまで何往復もかけて運んだ苦労や、かなり成熟したオスだったにもかかわらず、肉がとても美味しかったことまでをも思い出す。孤独と苦労のち喜び。いい時間だった。

 明日のこと、それ以降のことは、その時に考えよう。そう開き直ると、体の力が抜けてゆるゆると眠りに包まれていった。

(つづく)

イラストレーション 西川真以子