夜明けのハントレス 第31回 2025/04/10
【前回までのあらすじ】狩猟免許を取得したマチは初めて一人で入った山でクマを仕留めるが、痩せたクマを撃ったことを後悔していた。猟友会会長の新田にその経験をリセットしたほうがよいと言われ、あらためて山に入り、自分が一人で猟に出る意味を確認する。やがて大学を卒業し、就職して約半年。マチは三笠のアヤばあを訪ね、シーズン初の猟をするため一人で山へ。
マチはカサ、カサッと落ち葉(おちば)を踏みながら山を歩いていた。アヤばあの家から歩いて二時間ほどだ。
ガサッ、と小さな音がしたので、リスかと思いそちらを見る。エゾリスでもシマリスでもなく、鳩を少しずんぐり(short and stout)太くしたような鳥が地面を突いて(つついて)いた。カケスだ茶褐色の体に【ちゃかっしょく】、白、黒、青などの羽が映えて美しい。
カケスはドングリを一粒まるごと咥えると、パッときれいな羽を広げて飛び立っていった。冬に備えて、どこかにせっせと貯蔵(ちょぞう)しているのだ。
マチは足元に重なったナラの落ち葉をかき分けてみた。所々に、艶やかな(あざやかな)ドングリが落ちている。しっかり太ってカサから外れたものが多い。上を見ると、まだ落ちていないものが枝のそこかしこに実っていた。
パン、パンパン、パーン
ふいに、発砲音が聞こえた。かなり遠いうえ、山の斜面に音が反射しているので正確な方向はわからないが、幾度(いくど)か続けて撃ったのは間違いない。
誰かが、鹿を撃ち損じたかな。
マチは想像して、ふふっと笑った。ハンターにとって一発で獲物を仕留められるのにこしたことはないが、相手は生きて動いている動物だ。一発で命中させられず、逃げる獲物に続けて発砲することはよくある。マチは自分もやりがちな撃ち方を思い描いて、勝手に仲間のような気分になった。
晴天の下、秋の山は空気がからっとしていて、どこまでも見渡せる。マチは狩猟用の目立つベストと帽子を着用しているので、ちゃんとしたハンターなら鹿と間違えて撃つ、なんてことはないだろう。
そして、この辺りに鹿の気配はなかった。以前、大きなオスを仕留めた場所や、鹿が休憩しそうな小川沿いなども歩いたが、あるのはコロコロと乾ききった糞だけで、新しい足跡ひとつ見つからない。
今日は、はずれだ。
それでも仕方ないな、とマチは思った。アヤばあが言うように、何も見つけられなかったとしても仕方ない。特に、少し離れたところで他のハンターが無理に追い回しているのだとしたら、鹿は必死になって散り散り(【ちりぢり; ちりじり)に逃げたことだろう。もし運よく出くわしたとしても、落ち着いて撃てる状況が想像できなかった。
カラン、カラン
斜面の向こうで、硬い鈴の音が聞こえる。カバンにでもつけられているのか、人間がゆっくり歩くペースに合わせてカランカランとリズミカルに鳴っていた。
マチはわざと足元の落ち葉を蹴散らし(けちらし)ながら歩いて音を出し、辛くもないのに「よいしょ、よいしょっ」と声まで発した。斜面を登りきると、川沿いに人影が二つ並び、こちらを見ていた。
六十代ぐらいの夫婦だろうか。普段着にウインドブレーカーをひっかけたような恰好。そして日に焼けて色あせたつば付き帽。いかにも山歩きに慣れているという感じだ。もちろん銃は持っておらず、それぞれ手には棒とビニール袋を持っている。この辺りはクマがいないとアヤばあから聞いているが、クマ鈴は万一への備えなのだろう。
「こんにちは」
マチは笑顔、かつできるだけ大きな声で挨拶した。こちらを見て顔を強張らせていた二人も、ほっと安心したように「こんにちは」と返事をしてくる。
山で出会った人には、誰が相手であれ大きな声で挨拶をする。それはハンターにとって大事な『処世術(しょせいじゅつ)』だ。自分が銃を持っているからこそ、普通に挨拶ができる普通の人ですよ、と相手に示すことが重要になる。
「やー、ごめんなさいね。さっき、奥から物音が聞こえてきた時にはクマかと思って身構えちゃった」
「はは、驚かせちゃってすみません」
「いいええ。こちらこそごめんなさいねえ」
笑みを浮かべて近づくと、女性が愛想よく笑った。男性はマチが肩にかけている猟銃(りょうじゅう)を無遠慮(えんりょ)に見ている。
「あんた、鉄砲撃ちなの?」
「はい。この近くに住んでるアヤばあ、いえ、佐藤綾子(さとう あやこ)さんのところに泊まらせてもらっていて」
「ああ、佐藤さんとこの知り合いか」
やはり地元の人だったのか、二人はすっかり警戒を解いたようだ。マチは女性が持っているビニール袋の底に黄緑色(おうりょくしょく)のものが数粒(すうつぶ)入っていることに気付いた。
「山菜採り(さんさいとり)ですか?」
「うん、コクワ。ジャム作ったりコクワ酒作るのよ。シーズン初の様子見もかねて。あとはキノコ見つけられたら、とる感じ」
女性はビニール袋を掲げて(かかげて)笑った。地域(ちいき)によってコクワとも呼ばれるサルナシは、山林に自生している木だ。秋には小さく丸い実(まるいみ)をたくさんつける。マチも猟の時に新田に教えてもらって食べたことがある。キウイフルーツをぎゅっと凝縮した感じで、甘みもあるが渋みと酸味が強く、あまり好みの味ではなかった。
「そうか……ジャムとかお酒に漬ければ渋くないんですね」
納得したマチに、二人は「いいやあ」と首を横に振る。
「あれはね。木によるのよ。甘い実つけるのとまずい実しかつけないのがあるの」
「へえ、そうなんですか」
「うちら地元の人間がずっととってた美味しい木が近場(ちかば)にあったんだけどね。どっかの悪い人が、いっぺんにとるためにチェーンソー持ち込んで切り倒しちまって」
男性は心底憎らし(しんていにくし)そうに言った。自分の山でもないのに勝手に木を切るのはもちろん犯罪だし、実を一気にとるために切り倒すという行為は、自分の利益しか考えていない。マチも「ひどい」と思わず顔を歪めた(ゆがめた)。
「だから、山奥(やまおく)にあるもう一本のいい木まで行くところなのよ。この辺はクマ出ないけど、一応(いちおう)こうやって鈴つけて」
「そうなんですね。場所は聞かないでおきます。今年は、実のなりは良さそうですか?」
女性は、うーんと自分のビニール袋を見て唸った(うなった)。
「まあまあ良いかねえ。若い実がまだまだいっぱいついてるの見たし、期待できるわ」
「そうですか」
マチはほっと胸をなでおろした。毎年この山でコクワをとっている人の判断なら間違いはないだろう。コクワもドングリも豊作寄り。つまり、餌が不足したクマが食料を求めて人里(ひとざと)に降りる可能性が低いということだ。
「あんたも一人で鉄砲撃ちなんて、えらいもんだねえ」
男性が感心したように言った。この場合の『えらい』は、偉い、ではなく『すごい』とかニュアンスによっては『おっかない(恐ろしい)』の意だ。それを読み取ったマチは、あえて困ったように笑った。
「いえ、まだまだ青二才(あおにさい)で。今日もまだ鹿一頭も見つけられてませんし」
「ああ、まあ、そういうこともあるよねえ」
二人は親しみを持ったように笑った。かたや鹿撃ち、かたやコクワやキノコ採り。目的は違っても、山に入る者同士、人間の期待通りに実りがあるわけじゃない、という心得は同じらしい。マチもふふっと声を上げて笑った。
「したっけ、そろそろ行くかね」
「天気は崩れないみたいですけど、お二人ともお気をつけて」
「そっちも、気をつけてねえ。佐藤さんによろしく」
軽く挨拶を交わし、別れる。反対方向に遠ざかっていく鈴の音を聞きながら、マチは沢沿い(さわぞい)に歩いた。すると、小さくなった鈴の音がシャンシャンシャンと急に慌ただしく近づいてくる。振り返ると、さっきの女性が小走りで近づいてきた。
「どうされました?」
「これ、旦那があげてこいって。よかったら」
女性が手渡してくれたのは、二粒のキャラメルだった。見ると、男性がこちらを見て不器用そうな笑みを浮かべている。
「ありがとうございます、じゃお返し」
マチはウエストポーチからレモンキャンディを二粒出して渡した。二人に笑顔で手を振って、今度こそ別れる。ありがたいな、とキャラメルをひとつ口に放り込んだ。子どもの頃によく食べた、懐かしい甘さが口に広がる。
行動食(こうどうしょく)にはキャンディや自作エネルギーバーを持参することが多かったけれど、キャラメルもいいな。マチはそんなことを考えながら、小さな沢沿いに山奥へと足を向けた。鈴の音はもう聞こえない。
「おっ」
沢の脇の、落ち葉が湿ったところに、鹿が踏みつけた名残(なごり)を見つけた。このぶんだと、近くにいるかもしれない。
マチは乾いた落ち葉を避けて慎重に足を進めた。風に吹かれてカサリと音を立てた枯葉(かれは)や、リスやネズミが走る音はもう注意の外だ。
この耳が捉える(とらえる)べき音は、蹄(ひづめ、てい)を持った生き物が立てる音のみ。自分の動きで音を立てないよう気を付けながら、聴覚(ちょうかく)と視覚(しかく)に神経を全て注ぎ込んで、小さな滝を作っている岩を登った。
少し高いところから、振り返る形で斜面を見下ろすと、そこに鹿はいた。
マチは反射的に肩にかけた銃を下ろそうとしたが、手を止めた。斜面の下の方、枯れた笹(ささ)に紛れるようにして立っている鹿の数は、たった一頭。しかも、随分小さい。
マチは銃に弾を込めないままでスコープを覗いた。小さい、というより若い。単独行動ということはオスかとも思ったが、それよりは群れからはぐれたメスの若鹿(わかしか)という気がした。
スコープの向こうで、鹿は明らか(あきらか)に興奮していた。忙しなくその場で足踏みし、口を開けて荒い呼吸をしている。もしかしたら、さっき誰かが発砲した際に、逃げてきた若鹿なのかもしれない。
マチは銃を下ろし、足元の岩に腰かけた。鹿はこちらには気づいていないようだが、忙しなく周囲を見た後、こちらに尻を向けてぴょんぴょんと逃げ去っていった。
「今じゃないね。あんたは」
マチは遠ざかる白い尻毛(しりげ)を見ながら言った。
「また今度。生き延びて、ちゃんと大きくなったら、狙わせて(ねらわせて)」
まだ小さい。そして、他のハンターが散らした獲物である。大きな理由としてはその二つだ。だが、マチが撃たないのはそれだけでもない。
今日は、撃たなくてもいい。そう思えたからだ。山の中を銃を担いで(かついで)歩いて、鹿を探して、ちゃんと見つけ出せた。そのことだけで、今は満足できた。
さっきのキャラメルが呼び水(よびみず)になったのか、マチの腹がクウと鳴った。時計を見ると正午を回っている。マチはザックからアヤばあ手製のおにぎりを出して齧り付いた(かぶりついた)。強めの塩と、甘みのない酸っぱい梅干しが体に染みわたる。
「やっぱり、いいねえ。猟は」
もちろん、満足いく獲物に巡り合えて、いい仕留め方ができれば万々歳(ばんばんざい)だ。しかし、今日はそうじゃなくていい。キャラメルとおにぎりがおいしかった。それで十分だった。
結局、その日見つけた鹿はその一頭だけだった。マチは太陽が沈みかけた頃にアヤばあの家に戻った。
玄関側に回ったところで、出発時にはなかった乗用車が二台停車してあることに気付く。
「お客さん……?」
老ハンターとして名高いアヤばあは猟師に知人が多いと聞いている。マチと同じように山に入るために立ち寄る客が来たのかと思ったが、止められている車はごく普通のコンパクトカーと軽自動車だった。行儀が悪いかな、とマチは車窓から中を覗いたが、猟銃のカバーもアウトドア用品も積まれてはいない。
「ただいま戻りましたー」
玄関には男物(おとこもの)のサンダルとスニーカーがあった。近所の人かな、とマチが考えていると、アヤばあがドタドタと茶の間から出てきた。
「ああ、マチちゃん帰ってきた。今ちょうど電話しようと思ってたとこだった」
アヤばあの顔は心なしか青ざめている。さらに、マチの無事を確認するように肩や腕をさすった。明らかに雰囲気が尋常ではない。
「何かあったんですか」
「いやその、まだ分かんないんだけどさ」
アヤばあが説明に困っていると、茶の間からアヤばあと同年代らしき男性が出てきた。
「ああ、女の子帰ってこられたか。よかった」
「この人、このあたりの町内会長さん。今この辺回って人から話聞いててね」
「あのさ、山の中で夫婦二人連れば見なかったかい。七十歳前で、こう、山に入るの慣れてる感じで」
町内会長の説明で、マチの全身から血の気が引いた。震える唇で、慎重に答える。
「会い、ました。挨拶して、少し話をして、別れました。昼前に」
それを聞いて、町内会長はスマホで誰かに電話をかけ始めた。「山で会った人いた」「聴取(ちょうしゅ)を」と話している。アヤばあが、声を落としてマチに耳打ちした。
「二時間ぐらい前に、消防に通報があったらしい。錯乱(さくらん)した男の声で、『山でケガ』『血が』『クマにいきなり』って言って切れた。番号調べたら、町内の人だってことが分かって……」
アヤばあの眉間の皺は深かった。マチは頭の中でばらばらになっていたピース(piece、peace じゃない)を繋ぎ合わせる。
山の中で会った夫婦が、あの後、あの山で、クマに襲われた。
「怪我の具合とか、は」
生死は、とはとても聞けなかった。アヤばあは黙って首を横に振る。
「今の状態は分からない。GPSで場所は分かったから、これから捜索することになる。……鉄砲撃ちが同行して」
アヤばあの声は、説明するごとに冷静になっていった。小さな手が握りしめられているのが分かる。
「おい。クマは。クマの痕跡はあったか!」
突然、大きな声とともに奥から出てきたのは、細身の男だった。五十ぐらいで、濃い髭のため面相(めんそう)が分かり辛い。しかし異様に鋭い目には覚えがある。三石勇吾(みついし ゆうご)だった。