夜明けのハントレス 第32回 河﨑 秋子 2025/04/17

【前回までのあらすじ】狩猟免許を取得したマチは一人で入った山でクマを仕留めるが、痩せたクマを撃ったことを後悔していた。大学を卒業して就職し、約半年。マチは三笠のアヤばあを訪ね、シーズン初の猟へ。山から戻るとアヤばあの家に人が来ていた。山で夫婦がクマに襲われたと通報があったという。マチは、山で夫婦とすれ違っていた。そこへ、三石勇吾も現れる。

 アヤばあの家に、なぜこの男がいるのか。マチは遭難の報を耳にした動揺(どうよう)もあり、不審な目を隠せずに三石勇吾を見た。

「それで、クマの痕跡(こんせき)はあったのか」

 少しトーンを落とした声で再び問われ、はっとして考えをまとめる。

「いえ、クマの痕跡は、私が気づいた限りでは、ありませんでした」

 マチは慎重に言葉を選んで答えた。体感的には、まったくなかった。足跡、吠え声、フン、爪とぎの跡などはなかった。ただ、人が事故に遭っている以上、自分の感覚が全て正しいとは言い切れないのかもしれない。ベテランのアヤばあが言う、この辺りにはクマはいない、という保証に安心して目が曇っていた可能性もある。

「ひとまず、俺、駐在さん連れてくるわ。あんた、申し訳ないけど、ここでもちっと待っといてね」

「はい」

 男性はスマホを片手に慌てて外へと出て行った。コンパクトカーのエンジン音が遠ざかっていく。

「ま、ひとまずマチちゃん中に入んな。あんたも。ここでピリピリしててもしょうがないんだから、戻った戻った」

 アヤばあの、敢えてであろうのんびりした口調(くちょう)に、マチは却って緊張をかきたてられた。茶の間へと追いやられる三石も、ピリピリとした雰囲気を和らげてはいない。無理もない。なぜこの男がここにいるかはさておいて、人がクマに襲われたのであれば、誰しもクマの痕跡の有無(ゆうむ)は気になる。

 マチが上着を脱いで座布団に腰を下ろすと、アヤばあがすかさず大きな湯飲みになみなみと注いだ番茶を出してくれた。両手で湯飲みを包むと、体が冷えていたわけでもないのに、指先から伝わる熱がひどくありがたく感じられた。

 一口飲み、ふう、と一息ついたタイミングで、アヤばあが口を開いた。

「本当に、無事でよかった」

「……はい」

 でも、あの夫婦が。そう言いたいマチの気持ちを先取り(さきどり)したように、アヤばあが続ける。

「捜索は最悪の状況を想定して準備しなきゃならないけど、気持ちは先に負けてたら駄目さ。きっと大丈夫だ」

「はい」

 きっと大丈夫。気休めであっても、そう信じなければ混乱で思考が働かなくなってしまいそうだった。幸い、アヤばあの迷いのない目と温かい茶が、一筋の助けとなってマチの気持ちを引き上げてくれた。

 その間、床で胡坐をかいていた勇吾は、じっとマチを見ているだけで何も言わなかった。その視線に居心地の悪さは感じるが、余計なことを言われるよりずっといい。マチはそちらを意識せず、もう一口茶を飲んだ。

 小さな沈黙を破るように、車のエンジン音が近づいてきた。アヤばあが「さっきの町内会長が警察連れてきたかな」と腰を上げたので、マチも続く。程なくして、さっきの男性と中年の警察官が玄関にあらわれた。

 茶の間に場を移し、マチは改めて警察官から夫婦と会った場所、時間、その時の様子などを細かに聞かれた。

 遭難防止のため、自分が歩いた足跡が記録される地図アプリを入れていたのは幸いだった。マチはスマホの画面を警官に見せながら、あの時のことをなるべく詳細に思い出すよう努めた。

「その時の、ご夫婦の格好は」

「普段着に、上着を一枚羽織ったような服装でした。まるで、ちょっと散歩に出た、ぐらいの」

「ですよねえ。地元の人だし、慣れた山だし」

 警官は渋い顔をしてマチの話と持参した地図を見比べていた。その眉間(みけん)の皺は深かった。マチが顔を上げると、アヤばあも渋い顔をしていた。

「怪我をしたと連絡があった時のGPS記録が残っているのは、ここ。沢沿いの岩場ですが、幸い、森林管理署の職員が使う山道が近くにあり、直線距離で百メートルといったところです」

「だが、あの辺りは道から斜面をかなり降りたところだ」

 それまで黙っていた勇吾がぼそりと言った。やはり、この山にはかなり猟に入っていたのか、とマチが思っている間に、アヤばあが深く頷く。

「わかった。うちの町内会で動ける若いのと、消防団と、あとクマがまだ近くにいたらまずいから、アヤさん、行けるかい」

「ああ、あたしが同行する。他、地元のベテラン何人かで向かおう」

「そうだな、それしかない」

 現場近くまでは車で近づけること、緊急を要することなどから、ハンター同伴での救助という方向で話が進められていく。マチはその話し合いを、固唾(かたず)を呑んで見守っていた。

 三十分後に救助隊と同行ハンターは近隣の会館に集合、ということが決定し、ひとまず警官たちは帰っていった。

 アヤばあはすぐに捜索のための身支度を始めた。マチは遠慮がちに、気になっていたことを口にする。

「あの、クマがいることを考えて同行といっても、もう日没後ですが……」

「まあ、保険だよ」

 アヤばあは苦しそうに答えた。本来、日没後、日の出前の発砲は認められていない。しかし、警察官が同行し、必要な場合であればその命令のもと発砲はできる。ただ、裏をかえせば夜間にクマがいる場所に足を踏み入れること自体、それだけ危ないということだ。それでも今回のケースは暗く、襲ったクマがいるかもしれない中で、なるべく早く被害者を見つけて搬送しなくてはならない。

「言われる前に言っとくがね」

 アヤばあは猟師用のベストに腕を通して言った。

「悪いけど、あんたは連れていけない」

「……はい」

 分かっていたことではあるが、すっぱりと断言され、マチは低く返事をした。

「この辺の山を何度か歩いたことがあるとはいえ、夜の、しかもこんなリスクのあるボランティアによその鉄砲撃ちをつき合わせる訳にはいかない」

「はい。もっともです」

 拒絶はマチに対する気遣いでもある。アヤばあの気持ちは理解できているので、マチは下を向きつつも納得した。

「でも、気になったまま帰る訳にもいかないので、ここで待たせてもらってていいですか」

「ああ、無線と電話の番がいると助かるよ。頼むね」

「はい」

「で、あんたも留守番だ」

 アヤばあは、茶の間の隅で不機嫌そうに胡坐(あぐら、こざ)をかいている勇吾に言い渡した。

「……分かってますよ。銃はどうせメンテに出してるんだし」

「銃があっても、こっちに来てまだ日の浅い人間を混ぜる訳にはいかなくてね。悪いけど」

 アヤばあの言葉に、マチは驚いて振り返った。

「三石さん、札幌にお住まいじゃなかったですっけ」

「前はな」

 思い切り眉間に皺を寄せながら、勇吾はぷいと横を向いた。

「この人、三月で仕事やめて三笠に移住してきたんだよ」

「えっ」

 アヤばあの言葉にマチは声を失った。当の勇吾は、顔を逸らして暗い窓の外を見ている。

「こっから一本南の沢沿いの集落で、離農後の住居買って、農家の手伝いとかしてるんだとさ」

「狩猟のためですか」

 否定の言葉はなかった。アヤばあはキャップを被りながら勇吾に近づき、膝をついた。

「待ちな。あんたがクマを撃ちたいのも、人を助けたいのも、地元に馴染みたいのも分かってる。ただ、今じゃないってだけの話だ」

 ぽん、と勇吾の肩を叩いてから、アヤばあは「よいしょ」と立ち上がった。声こそ出してはいるが、敏捷(びんしょう)な動きだった。そのまま奥の部屋へと向かい、ガンロッカーから出した銃が入ったバッグを肩にかけて出てくる。

「お気をつけて」

 玄関で見送るマチの肩を、アヤばあが叩いた。

「一応言っとくけど、遭難の件は、あんたのせいじゃないからね」

「はい」

 励ましに、マチは頷きながらアヤばあの背中を見送った。見透かされていたなあ、と、小さくなっていく軽トラックの音を聞きながら反省する。

 心のどこかで、私のせいではないか、私がクマの気配を感じ取って警告できていたなら、と考えていた。

 しかし、そうではないのだ。

 ただ、山の中で出会った人がクマにやられて動揺している。それが全てだ。本来必要ない罪悪感も恐怖も、感覚を鈍らせる。

 暗い玄関で、マチは深呼吸した。今は無事を祈ることしかできない。

 茶の間に戻ると、勇吾がちゃぶ台に地図を広げていた。三笠周辺の山林のもので、自前なのか、細かな書き込みがそこかしこにある。ひときわ目立つ赤い丸が、ここアヤばあの家らしい。

「さっきの。アプリの地図。もう一度見せてくれ」

「あ、はい」

 勇吾の声は低くて重いものだったが、さっきの不機嫌そうな響きはなかった。マチは慌ててスマホを取り出す。

「この家から出て、沢沿いにこう回って……ご夫婦に会って挨拶したのは、ここです」

 勇吾は鉛筆でマチが辿ったルートを地図に書き込み、夫婦と会った場所に×印をつけた。

「それから?」

「ご夫婦は、もっと奥に甘いコクワの木があるからって、こっちの方向に。私は背を向けるかたちで反対方向に」

 勇吾がマチに望んだ説明は、さっき警察の前で行ったのとほぼ同じだった。

「鹿は」

「え?」

「鹿は、いたのか」

 夫婦のことには関係ないはずの鹿について聞かれ、少し面食らう(めんくらう)。

「もう少し西に歩いて……この辺かな。ここでようやく一頭見つけて、でも群れからはぐれたのか、落ち着かない感じの若い鹿だったから、撃ちませんでした。他には鹿がいそうな新しい痕跡がなかったので、まあ今日はそういう日なんだろうと」

「……鹿が、いない」

 勇吾は顎に手をやって少し考えると、「おかしいな」と呟いた。

「俺は二週間前から銃をメンテナンスに出した五日前まで、ほぼ毎日、この周辺に鹿撃ちに来ていた。もちろん日によって波はあるが、ほぼいない日なんて……」

 そう言うと、勇吾は胡散臭そうな目でマチを見た。思わずむっとして反論したくなる。

「さすがに、あるはずの鹿の気配や痕跡に全然気づいてなかった、ってことはないですよ」

「どうだか」

 鼻で笑って地図に視線を戻す勇吾に、マチの苛つきは自然と高まる。

「山に入ってる他のハンターの発砲音も、一度聞いただけでしたし。それも、逃がした感じのを一度。メンテ前に三石さんがなんか無茶して蹴散らしたんじゃないですか」

 マチが渾身の嫌味を込めた冗談に、勇吾は笑わなかった。

「待て、他のハンターの発砲音? どこでだ」

「ええと……きちんと記録とってるわけじゃないですが、このあたりを歩いている時かと」

 マチはスマホの記録と地図を見比べて、一点を指した。確か、アヤばあの家を出て二時間ほど歩いた、周囲にナラの木が多い林だ。

「方向は分かるか」

「南の方とは思いますが、斜面とか、木に反射して正確なところは……」

 チッ、という舌打ちにマチは苛立ちを覚えつつ、勇吾の真剣な横顔を見ていると文句は言えなかった。勇吾はマチが発砲音を聞いた地点から南方向に指を滑らせて地形を確認していた。

「この近辺は、佐藤の婆さんや三笠の猟師連中が定期的に山に入っていることもあって、クマがいなかった……」

 マチに説明するというよりは、自分で確認するためなのか、地図を睨みながらぶつぶつと呟いている。

「だが他の地域からクマが移動してくる可能性は十分にある」

 勇吾の言葉に、マチは固唾を呑んだ。自分は弱っていたクマ一頭をほぼ偶然に仕留めたにすぎないが、先輩ハンター達からクマの習性については聞いている。クマは多少の個体差はあれど縄張り意識を持ち、限られた地域で個体数が増えれば、時に何十キロも移動することがある。

 そうして移動してきたクマが、あの夫婦を襲ったのだろうか。マチが唇を噛みながら勇吾を見ると、彼の真剣な眼差しは変わらず、しかし口元に笑みを浮かべていた。

「三石さんは、クマを撃ちたいんですね」

「ああ」

 一片の躊躇もない返事だった。猟師でも、害獣駆除のため、鹿を撃ちたいから、狩猟自体が楽しいから、色々な理由を抱く人がいる。マチは堀井銃砲店のお婆さんが、勇吾についてクマ撃ちに命をかけていると言っていたのを思い出した。ならば今回の事故を通して明らかになったクマの存在すら、彼にとっては嬉しいのだろうか。しかし、勇吾は「だがな」と重い声を出した。

「今回の、これは、気に食わねえな」

「気に食わない?」

「どっかから、追い込まれたのかもしれん。人為的に、他の場所から、ここまで」

 勇吾はそう言って、笑っていた口元を引き締めた。