夜ふけのなわとび 第1846回 林 真理子 2024/06/21

文化の壁

 本の宣伝のようになって恐縮であるが、3年前に『小説8050』という本を出した。

 これは引き込もりをテーマにしたもの。大きな社会問題ということで、NHKで取り上げてくれたこともあり、ベストセラーになった。

 今回それが文庫化され、プロモーションを兼ねて講演会を行なうことになった。協賛は新潮社である。新潮社からは、ご存知、中瀬ゆかり((なかせ ゆかり)さんをはじめ4人の編集者が来てくれた。

 楽屋(がくや)でお弁当を食べながら、私はイヤ味を口にする。

「あんなに売れた本なのに、文庫の初版部数がなぜこんなにショボいの」

 最近文庫が本当に売れなくなった。世の中から文庫本という媒体(ばいたい)が不要となっているかのようだ。

 もちろんミステリーのベストセラー作家のように、文庫もすごい数が売れている人もいるが、まわりの作家に聞いても文庫の初版部数は衰退している。

 私など昔から、単行本はたいした数売れなかったのであるが、文庫はかなりよかった。以前だと文庫を1冊出すと、1年はまあラクに暮らせたのである。今はそんなことはない。

「今、本を買う人は単行本を買います。文庫化を待ってまで買う層がいなくなったんです」

 あとは書店の減少、オーディブル、電子本の普及が原因にあげられるが、何よりも、

「若い人が本を読まなくなりましたからね」

 そう、文庫本は若い人のものだったのに。

 夏になると必ず出た出版社のキャンペーンのポスター。あきらかに若者を意識したものであった。今、ジーンズのポケットに、文庫本をつっ込んでいる若い人なんか見たことあるだろうか?

 などと愚痴を言っても仕方ないので、『小説8050』の文庫本を売らなくてはならない。

 久しぶりの講演会だったので、私はメモをつくった。

 小説の連載をする時、たいてい2年前、早い時は3年前から準備が進められる。そしてテーマであるが、

「自分からこういうものを書きたい、っていう時もあるけれど、編集者からこれを書きませんかっていう時も多いですね。『8050』は、新潮社さんの方からぜひやりましょう、と言われました」

「8050」というのは、年金をもらう80代の親に、50代の子どもがパラサイトしていくという問題。

パラサイトシングル; パラサイト・シングル (n) single person who earns enough to live alone but prefers to live rent-free with his or her parents

「しかしこれだとあまりにも悲惨なので、年齢を若くして、50代の父親と20代の息子としました。そしてここからが作家の出番です」

 取材をして、いかに引き込もりがつらいことであるか、子どものために苦しみ悩む家庭が多いか。しかしそうした真実を書いていくと、

「ドキュメントになってしまいます」

 もちろんドキュメントも多くの感動をよぶのであるが、小説は別のものにしなくてはならない。

「作家はそこでひとひねり、ふたひねりしなくてはなりません。自分なりのアイデアを出し、現実をさらにドラマティックなものに変えていきます」

誉めるものがなければ

 1時間たった頃、最前列に座っていた名編集者でもある中瀬ゆかりさんを呼び込んだ。彼女は、テレビにも出演している人気者である。

「この本を一緒につくった、中瀬ゆかりさんにもご登壇いただきます」

 大拍手が起こり、ここからは2人でのトークになる。私は編集者というのは、いかに作家のモチベーションを上げるために全力を尽くしてくれるか、という話をした。

「私、このあいだ文芸誌に短篇書いたら、編集長から長い長い直筆(ちょくひつ)の手紙が来ました。それは、人を誉める時はこう書け、というお手本みたいな手紙で、私はまだしばらく作家やってけるという自信持てましたよ。すごく幸せな気分になって、今も持ち歩いてる」

「そうですよ、編集者っていうのはそれが仕事です。そのために私たちはいるんです」

 と言ってオチをつけるのが中瀬流。

「私、何かの座談会(ざだんかい)で、コンサルやっている女性と一緒だったんです。彼女、私のスカーフをものすごく誉めてくれたんですが、それってアメ横で買った、どうってこともないスカーフで、帰りぎわに彼女、自分の書いた本をくれたんです。『ほめ方の技術』とか何とか。そこには、誉めるものが何もない人には、スカーフを誉めろ、って書いてあったんです」

 これには場内(じょうない)大爆笑(だいばくしょう)だ。

 そして2人で『愉楽にて』の取材で出かけたシンガポールで、私の求める取材先をどう見つけ出したか、などという話になった。

「まるでかけ合い漫才みたいでした」

 次の日言われた。何人かの日大職員が来てくれていたのだ。

「あれは台本あるんですか」

「あるわけないよ、中瀬さんとは古い仲だしね」

 教育の場所に携わってわかったことがある。それは教員はもちろん、職員もものすごくまじめということ。私たちがふつうにしていた下品なジョークなどもっての外で、私も口を慎んでいるが、中瀬さんとの丁々発止のやりとりを見て彼らはびっくりしたらしい。

「昨日なんかものすごく上品だよ。中瀬さんと仲よしの岩井志麻子さんとか、西原理恵子さんなんかだと下ネタ満載だよ」

 そういえば私の愛読書である西原さんの「ダーリン」シリーズを3冊あげたところ、困惑の表情で言われた。

「色がどぎついし、どう読むのか意味がわかりません。どうしてクマが出てくるんですか」

 そうかわからなかったか。文化の壁は存在してるのか。

 ちなみに2年前、私が理事長に就任した時、

「みなさん、私のことを知らないと思うので本を読んでください」

 と手紙を添え、『小説8050』を450冊サインして、本部の職員に配った。みんな読んでくれたかな。