林真理子 夜ふけのなわとび 第1878回 2025/02/21

私は写楽

 コロナの出口が見えかけた頃、ある人が言った。

「これで日本のクラシックは終わるよ」

 長年支えてきた中高年たちに、会場に行かない習慣がついてしまった。もう元に戻ることはないだろうと言うのだ。

 しかしここのところ、私が行ったコンサートやオペラはどこもほぼ満員であった。若い人もいるが、やはり主流はある程度年がいった人たちである。

 歌舞伎も大盛況で本当に嬉しい。コロナの真最中、1階のお客が13人とか17人という光景を見ているからだ。

 先日歌舞伎座に行ったら、満員のうえに着物姿の女性がたくさんいて華やかなことこのうえない。実はこの2年ぐらい、ほとんど歌舞伎座に足を向けていなかった。あまりにも忙しかったのと、とてもそんな心の余裕(よゆう)がなかったからだ。

 ところが4ヶ月前ぐらいのこと、たまたま会った松竹(まつたけ)の方にこう言われた。

「ハヤシさん、この頃あまり歌舞伎にお出かけくださいませんね」

 ドキリとした。どうしてそんなことをご存知なのだろうか。たぶんいつも切符を買っている役者さんのところの、番頭さんに聞いたのではなかろうか。

 とにかくちょっと気がとがめた私は、このところ毎月歌舞伎座に行くようにしていたのであるが、見たら見たでやはり面白い。

「歌舞伎ってこんなにいいもんだったんだ……」

 としみじみ思ったのである。

 若手がものすごく成長して、いい役についているのも嬉しい。2月の昼の部は、「きらら浮世伝(うきよでん)」が大きな話題となっている。これは今、大河ドラマの主人公になっている蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)の物語だ。なんと37年前に書きおろされたものだという。

 筋書きに脚本・演出の横内謙介(よこうち けんすけ)さんが文章を寄せている。小劇団の座長をしていた時に、銀座セゾン劇場から、「寛政期の青春グラフィティーを書いてほしい」という依頼があったという。

 歌舞伎界からは当時は勘九郎だった中村勘三郎さん、同じく浩ひろ太た郎ろうと名乗っていた中村扇雀(なかむら せんじゃく)さん、他にもテレビやアングラの人気者たちが出て、とにかくすごいエネルギーをはなつお芝居だったらしい。その後も再演の話はあったらしいが、その思い出が強烈だったので、首をタテに振れなかったようだ。今回、歌舞伎座ということと、勘三郎さんの息子さん2人が出るということで再演を承諾したらしい。

 私は最初の公演を見ていないのであるが、勘三郎さんの熱演はたやすく想像出来る。さぞかし素晴らしかったんだろうなあ……。

 そして今回、長男の勘九郎さんを見てびっくりだ。ますます似てきた。声から何までお父さんそっくり。くるくる舞台を駆けまわり、全身で役になりきっている。ノッてくると地がちらっと出るのも同じ。お父さんより背が高くすらりとしているので、二枚目が難なく出来るのは強みか。

 遊女役の七之助さんの美しさも磨きがかかり、

「勘三郎さんのDNAって、本当にすごいなあ」

 とひとりごちて、休憩のトイレに向かおうとしたら声をかけられた。幻冬舎(げんとうしゃ)社長の見城徹(けんじょう とおる)さんが、私とも親しい編集者の女性といるではないか。

「どうしたの」

「このきらら浮世伝、当時オレたちもかかわっていたんだ」

「ふうーん、そうなんだ……」

 とロビイで喋べっていたら、長身の眼鏡をかけた男性が近づいてきた。作者の横内さんだった。見城さんに挨拶するためであるが、私とも昔会っていたらしい。

文化の灯を絶やさない(たやさない)

 このお芝居は寛政の改革で、重三郎たちが罪に問われるシーンで終わる。喜多川歌麿も山東京伝も滝沢馬琴も葛飾北斎も、役人たちによって、

「謎の絵師、写楽とは誰か」

 と問われる。皆は口々に写楽は自分だと答えるので、諦めた役人は怒りながら帰っていく。

 そして皆が口々に叫んでフィナーレ。

「オレが写楽だ」

「私が写楽だ」

「自分が写楽だ」

 自分たちこそクリエイターであり発信者なのだ。そしてどんなことがあっても、文化の灯は絶やさないという決意なのだ。大拍手でお芝居は終わる。歌舞伎座じゃなかったら、スタンディングオベーションだったろう。

 その後私たち3人は近くでお茶をした。

「ねぇ、ケンジョーさん、フジテレビの株を3パーセント買ったんだって? ネットで流れてたけど」

「そんなのウソに決まってるだろ」

「えー、信じちゃったよ」

 などという会話が続いた後、私はついこんな愚痴が出る。

「オペラも人がいっぱい。人によるけどコンサートも入ってる。バレエはもうチケット取れない。そして歌舞伎も人がわんさか。それなのにどうして、本だけは人が戻らないんだろう」

 みんな無口(むくち)になる。

 見城さんが言った。

「まあ、みなで頑張るしかないな」

 3人ですごした80年代、90年代が甦る。毎日がお祭りのようで本当に楽しかったなあ。あの時タダの編集者だった見城さんは、今や有名出版社の社長で大金持ち。そして信じられないことに外見があの頃とあまり変わっていない。ベースボールキャップをかぶり、ジャンパーにデニムがきまってる。出版界のために、もうひと頑張りしてくださいよ。

「私は写楽だ」

 自然に口をついて出た。

「私は写楽よ」

「そうだオレたちは写楽だ」

 喫茶店で頷き合う私たち。

 今日はいい一日であった。