池上彰のそこからですか!? 第630回 2024/09/13

国際刑事裁判所、存亡の危機

 世界各地の紛争での人道犯罪を裁く国際刑事裁判所が存亡(そんぼう)の危機に立っています。

 理由は2つ。ひとつは裁判所の決定を守らない国があること。もうひとつは、アメリカが裁判所に制裁を科す姿勢を見せているため、それが実行されたら裁判所が成り立たなくなるという危機です。

 今回ニュースになったのは、国際刑事裁判所から逮捕状が出ているロシアのプーチン大統領が、モンゴルを公式訪問したのに、国際刑事裁判所の決定を守る義務があるモンゴルが、プーチン大統領を逮捕しなかったことです。プーチン大統領は、「国際刑事裁判所の逮捕状など、何の効力も持たない」ということを示そうとして、ロシアに頭が上がらないモンゴルを訪問したのでしょう。

 モンゴルにとってロシアは重要な貿易相手国(あいてこく)。石油と石油製品の輸入の9割以上を依存しています。ロシアに睨まれるのが怖いのですね。かつて東西冷戦時代、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)と国境を接するモンゴルは、ソ連の衛星国家(えいせいこっか)にさせられていました。衛星は地球のような惑星を回る存在。ソ連あっての国家で、モンゴル語にはモンゴル文字があるのに、キリル文字で表記させられていました。

 ソ連が崩壊して、モンゴルはようやく実質的な独立を果たし、社会主義体制を放棄。文字をキリル文字からモンゴル文字(もんじ)に戻している最中です。

 では、そもそも国際刑事裁判所とはどんなものか。以前にも取り上げたことがありますが、おさらいしておきましょう。

 国際的な裁判所としては国際司法裁判所がありますが、これは国連の機関で、国連加盟国同士のトラブルを調停したり判断を下したりする組織です。これに対し、国際刑事裁判所は、個人の責任を追及する裁判所です。どちらもオランダのハーグにあります。

 過去には戦争や紛争で戦争犯罪が起きたりすると、そのたびに国際法廷が設置されていましたが、これを恒久的なものにしようと、1998年に刑事裁判所を設置する国際条約が採択され、2002年に発効。日本も2007年に加盟し、効力を持っています。現在は124の国と地域が加盟していて、日本の赤根智子(あかね ともこ)裁判官が所長を務めています。赤根氏は日本で検察官の経験が長く、その経験が買われて国際刑事裁判所の裁判官になり、現在はそのトップに立っています。

 国際刑事裁判所は2023年3月、ロシアのウクライナ侵攻に際し、多数のウクライナの子どもたちをロシアが連れ去った容疑でプーチン大統領らに逮捕状を出していたのです。

 これにロシアは反発。逆に赤根所長らを指名手配しています。先日、テレ東BIZのオンライン取材で赤根所長にインタビューし、ロシアから逮捕状が出ていることに恐怖を感じないか聞いたのですが、「裁判官はいくらでも替えがききますから」との答えでした。これは、たとえ自分が犠牲になっても後任が仕事を引き継ぐという意味です。プロの覚悟に感動しました。

アメリカが制裁をちらつかせる

 赤根所長は、インタビューの中で、アメリカによる制裁の可能性について危機意識を募らせていました。どういうことか。

 今年5月、国際刑事裁判所の主任検察官がイスラエルのガザ攻撃に関し、ネタニヤフ首相とガラント国防相など5人に戦争犯罪の疑いで逮捕状を請求しました。イスラエルの2人以外はハマスの指導者で、請求後にイスラエルによって殺害されてしまった人物もいました。

 ただし、裁判所に検察官が所属しているというのは、日本の司法制度から見ると不思議ですね。日本では検察官(検事)が所属する検察庁と裁判所は別のもの。警察官や検察官が裁判所に逮捕状を請求する仕組みです。

 これに対し、国際刑事裁判所は、裁判所の中に検察官がいて、独自に捜査。容疑が固まれば裁判所の中の予審裁判部に逮捕状を請求する仕組みになっています。

 予審裁判官が認めれば逮捕状が発行されます。現在は、ネタニヤフ首相などに対して逮捕状を発行するかどうか予審裁判官の判断待ちです。

 ところが、これにネタニヤフ首相が猛反発。イスラエルの味方をするアメリカも反発し、共和党が多数を占める下院が国際刑事裁判所の関係者に制裁を科すよう政権に求める法案を可決しました。国際刑事裁判所の関係者のアメリカ国内の資産凍結やアメリカへのビザの発給を制限するように政権に求めています。

 赤根所長によると、もしアメリカが国際刑事裁判所の関係者に制裁を科すと、アメリカ国内ばかりでなく世界中の金融機関が、制裁内容に触れることを恐れて裁判所との関係を断つことになるのではないかというのです。

 たとえば制裁内容に触れるようなことをした金融機関は、アメリカからドルを得ることができなくなる可能性があります。ドルが入手できなければ、取引先企業がアメリカの企業に送金してくれと頼んできても不可能です。

 こうした制裁を受けることを恐れて、どこの金融機関も刑事裁判所との関係を遮断した場合、何が起きるのか。国際刑事裁判所は加盟国からの送金によって運営が成り立っていますから、送金業務を請け負ってくれる金融機関がなくなります。となれば裁判所を運営するための施設の維持費や職員への給与の支払い(しはらい)ができなくなります。つまり国際刑事裁判所は機能停止に陥るのです。

 いまのところ民主党が多数を占める上院は、下院の法案を審議していませんし、バイデン大統領も制裁法案には反対しています。そもそもアメリカは国際刑事裁判所条約には加盟していないのですが、アメリカの態度次第で裁判所の存続(そんぞく)は風前の灯(ふうぜんのともし)なのです。