池上彰 第634回 2024/10/11
レバノンとはどんな国?
レバノンは悲しい国です。南隣(みなみとなり)のイスラエルがレバノン南部に地上(ちじょう) 侵攻したり、首都ベイルートを空爆したりしているのに、国家として何もできないのですから。
朝日新聞によると、レバノンのミカティ暫定首相は、人口530万人の同国で、全土での避難民が約120万人にのぼると明らかにしたそうです。イスラエルによる侵攻や空爆は、明らかに侵略行為。レバノン政府としては自国の領土(りょうど)を守るためにイスラエル軍に反撃したいところなのでしょうが、レバノン政府軍には、そんな力はありません。
レバノン政府軍は一応イスラエルとの国境に警備兵を配置していたのですが、イスラエルがレバノン南部の住民に退避を呼び掛けたところ、政府軍兵士もさっさと退避してしまったといいます。
では、そもそもレバノンとはどんな国なのか。元日産自動車(もとにっさんじどうしゃ)会長のカルロス・ゴーン被告が2019年12月に日本を密出国(みつしゅっこく)してレバノンに入国したというニュースで、レバノンについて初めて知ったという人もいることでしょう。ゴーン被告は、いま何を考えているのか。「日本にいた方がよかった」なんて後悔していないでしょうか。
レバノンの国旗にはレバノン杉が大きく描かれています。良質な木材(もくざい)として知られ、レバノンの人たちの誇りです。ただ、いまはレバノン杉が激減し、保護活動が行われています。かつてこの地域には大量にあったようですが、紀元前10世紀までにフェニキア人が大量に伐採(ばっさい)してしまったといわれています。フェニキア人といえば、地中海を縦横(じゅうおう)に行き来して貿易で栄えました。行き来するための船を建造するために使われたのです。
レバノンの国名の由来は、かつてのフェニキア語で「白い」という意味の言葉です。レバノン中央部のレバノン山脈は冬場冠雪(ふゆばかんせつ)するため、こう呼ばれたのです。
レバノンの東部は険しい山岳地帯。西アジアで迫害(はくがい)を受けた宗教の少数派が逃げ込みました。その結果、キリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)やイスラム教ドゥルーズ派など、なんと18もの宗派があって、「モザイク国家」と呼ばれています。
私は2012年にレバノンを取材しましたが、ベイルートの街を一望すると、キリスト教の教会やイスラム教のモスク、ユダヤ教のシナゴーグなどが立ち並んでいました。いわば宗教の展示会のようでした。
このモザイクがしっかりしていれば国内は平和なのですが、いったん均衡(きんこう)が崩れると、悲惨な内戦になってしまうのです。
1960年代のベイルートは、自由な雰囲気の都市で、かつてフランスの植民地だったこともあって、「中東のパリ」と呼ばれていました。後述(こうじゅつ)のレバノン内戦で、首都は廃墟(はいきょ)と化しましたが、内戦が終わると、再び賑わいが戻ってきます。ブランド品を売る店やお洒落なカフェが点在していました。
あの素敵な街が再び戦火に見舞われるのはとても残念です。
PLOが拠点を築いてモザイク崩壊
レバノンも中東戦争などの影響から逃れることはできませんでした。1970年代にはPLO(パレスチナ解放機構)が拠点を築き、イスラエルに越境攻撃を繰り返します。するとイスラエルは必ず報復攻撃をするため、戦火が飛び火(とびひ)します。それまで宗教各派の微妙なバランスが成立していたレバノンに、PLOつまりイスラム教スンニ派の武装勢力が増えたことで、1975年にイスラム教徒とキリスト教マロン派の間で衝突が起きたのをきっかけに、レバノン内戦が勃発(ぼっぱつ)します。
その中でヒズボラが生まれるきっかけとなったのが、1982年、イスラエル軍がレバノン南部に地上侵攻したことです。この侵攻でイスラエルはPLOをチュニジアに追い出すことに成功しますが、レバノン南部にはイスラム教シーア派の住民が多く住み、この人たちが犠牲を払うことになって、反イスラエル感情が高まります。
ヒズボラ 0, Hizbollah〔アラビア語で神の党の意〕 レバノンのシーア派イスラム原理主義組織。
これに目をつけたのが、同じシーア派の国家イランでした。革命防衛隊を送り込んで、ヒズボラを育てあげたのです。
レバノンは内戦もあり、すっかり貧しくなっていましたが、イランから豊富な資金援助を得たヒズボラは、支配地域で社会福祉に力を入れ、支持を拡大するのです。
この内戦をなんとか終わらせようと、アメリカやかつての宗主国フランスが軍隊を派遣しますが、これがテロの標的になりました。
1983年にベイルートにあるアメリカ軍海兵隊の兵舎が車爆弾(くるまばくだん)を使った自爆攻撃を受け、241人が死亡するという大惨事となりました。その直後にはフランス軍の陸軍の兵舎も自爆攻撃を受け、58人の兵士が犠牲になりました。
こうした犠牲が出てしまうと、各国ともレバノンから撤退してしまいます。国際社会もレバノン内戦には無力だったのです。
ここに「平和」をもたらしたのは、隣国シリアでした。1990年にレバノンに侵攻し、内戦を鎮圧しました。要はシリアによる占領なのですが、結果的にレバノン国内に安定をもたらしました。その後は、レバノンがますますモザイク国家と呼ばれるような政治体制になります。
国家元首(げんしゅ)である大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム教スンニ派、国会議長はイスラム教シーア派から選ばれます。
国会議員の数は128人で、宗派ごとに議席が割り当てられています。キリスト教徒はマロン派34、ギリシャ正教14などと分かれています。一方のイスラム教もスンニ派とシーア派がそれぞれ27、ドゥルーズ派8、アラウィー派2と分かれています。南部で支持が根強いヒズボラは、シーア派に割り当てられた議席を獲得し、レバノン政府内で影響力を維持しているのです。