池上彰のそこからですか!? 第648回 2025/02/08

フジテレビとはどんな放送局?

 毎日のように流れるフジテレビのニュース。取締役相談役という奇妙な肩書を持つ日枝久(ひえだ ひさし)の動向も注目されていますが、日枝氏は、なぜ権力を握ることになったのか、フジテレビの歴史を見ることにします。

 フジテレビは、1957年の設立当時は「富士テレビジョン」でした。誰でも知っている日本のシンボルを名前にしたというわけです。

 そもそもは東京のラジオ局の文化放送とニッポン放送が中心となり、そこに映画会社3社が加わって設立されました。今回、文化放送の社長がフジテレビの社外取締役になっていることを知った人もいるでしょうが、こうした経緯があるからです。

 設立の中心となったのは文化放送の水野成夫社長とニッポン放送の鹿内信隆専務でした。水野氏は共産党の活動家でしたが、逮捕されて獄中で転向。一転して大の共産党嫌いになります。戦後は財界で共産党対策を担当し、文化放送の社長に就任していました。また、鹿内氏も財界で共産党対策を担当した後、ニッポン放送の専務になっていました。鹿内氏は戦時中、フィリピンで日本軍将兵のための慰安所の設立に関与していたことを自伝で語っています。

 フジテレビは、財界がバックにつき、大の共産党嫌いの2人によって生まれたのです。2人は労働組合を目の敵にして弾圧。今回の事件でフジテレビの労働組合の組合員が少ないことが話題になりましたが、労働組合は徹底的に痛めつけられてきたのです。今回の事件までは組合員が100人にも満たない弱小組合でしたが、現在は500人以上に増えたと伝えられています。

 設立当初は水野氏が社長でしたが、病に倒れた後は鹿内氏が社長となり、社内の独裁者となります。1970年代はじめにはドラマや芸能番組の制作担当者を、フジテレビの仕事を請け負う制作プロダクションに出向させてしまいます。経費節減と労働組合運動をする社員を追放するためだったと言われています。

 しかし、こんなことをすれば社員のやる気(やるき)は失せてしまいます。フジテレビは低視聴率に悩む弱小テレビ局になってしまいました。

 一方でその頃までのフジテレビは女性の地位が低く、女性社員は25歳で退社させていました。アナウンサーについても「25を過ぎた女をテレビに出すわけにはいかない」という発想でした。もっとも、これはフジテレビだけではなく、他局も似たようなものでしたが。

 独裁者としての鹿内氏は世襲を試みます。本人が会長になった後、ニッポン放送の副社長だった息子の鹿内春雄氏を副社長に据えたのです。当時のフジテレビのキャッチフレーズは「母と子のフジテレビ」でしたが、社内では「父と子のフジテレビ」あるいは「父子(ふし)テレビ(」と陰口を叩かれていました。

 春雄氏は、当時NHKの花形アナウンサーだった頼近美津子(よりちか みつこ)氏を気に入ってフジテレビに引き抜き、常に自分の近くに置いて、やがて妻にしてしまいます。

「軽チャー路線」で大成功

 春雄氏は、実権を握ると、大改革を実施します。父親の信隆氏が下請けの制作プロダクションに追いやっていた人たち全員を呼び戻して正社員にしたのです。これは息子だからこそできたことでしょう。

 これにより社員のモチベーションは上がり、フジテレビの快進撃が始まります。1981年には「母と子のフジテレビ」を改め、「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズを打ち出します。「オレたちひょうきん族」や「笑っていいとも!」などのヒット番組を連発。1982年には年間視聴率三冠を達成します。この「軽チャー路線」を支えたのが編成局長だった日枝久氏でした。

 春雄氏は1985年にフジテレビ会長、またフジサンケイグループ議長に就任します。鹿内一族の世襲でした。しかし、1988年に春雄氏は急死。日枝氏はフジテレビ常務から社長に昇格します。一方で、信隆氏は春雄氏の死後すぐ日本興業銀行行員だった娘婿の宏明氏を養子縁組で鹿内姓にして、のちにグループのトップにします。まさに会社の私物化でした。このあたりから宏明氏と日枝氏の確執が始まります。

 1990年に信隆氏が亡くなると、その後、宏明氏はニッポン放送、フジテレビジョン、産経新聞社、サンケイビルなどを統括する「株式会社フジサンケイコーポレーション」の会長兼社長に就きます。

 これにグループ各社は反発。1992年、宏明氏は産経新聞社取締役会で会長職を解任されてしまいます。日枝氏のグループによるクーデターでした。

 ショックを受けた宏明氏は、ニッポン放送やフジテレビジョンの会長職からも辞任し、フジサンケイコーポレーションは解散。鹿内家の経営支配は終わりを告げます。

 ところが、宏明氏は経営者ではなくなっても鹿内家の代表として大株主のまま。各社の株主総会に出席してにらみを利かせます。

 これを何とかしようと考えた日枝氏は、フジテレビの親会社のニッポン放送を東証二部に上場させます。株式市場に上場すると、新規の株を発行して売りに出しますから、鹿内家の持つニッポン放送の株の比率が下がり、鹿内家の影響力を低下させることができると考えたのです。

 しかし、その結果、フジテレビジョンの親会社のニッポン放送の株を買い占めればフジテレビジョンの経営権を握ることができるという構造になっていました。

 ここに目をつけたのがライブドアの堀江貴文氏でした。電撃的にニッポン放送の株を買い占めたのです。これがライブドア騒動です。最終的には堀江氏と日枝氏の和解が成立して、フジテレビはライブドアによる買収を免れました。日枝氏は「フジテレビを守った」として、社内での影響力を強め、現在に至るのです。さて、日枝氏の去就はいかに。