池上彰のそこからですか!? 第652回 2025/03/08

ポーツマス2.0かミュンヘン2.0か

 アメリカのトランプ大統領がロシアとウクライナの戦争の停戦に前のめりです。停戦を実現させてノーベル平和賞を狙っているのではないかと言われています。1期目の時、前任者だったバラク・オバマ大統領のことが大嫌いだったトランプ氏は、大統領になるやオバマ大統領の実績をことごとくひっくり返しました。オバマ大統領が熱心だった温暖化対策を否定し、オバマ大統領が成立に関与したパリ協定から離脱しました。バイデン大統領が再加盟を決めましたが、再び離脱すると宣言しています。

 オバマ大統領はイランの核開発を止めさせるためにイギリス、ドイツ、フランス、ロシア、中国を巻き込んで2015年7月、「イラン核合意」をまとめました。それまで各国は核開発疑惑のあったイランに対して経済制裁を続けてきましたが、イランが核開発を制限する見返りに経済制裁を緩和するというものでした。トランプ大統領は、ここからも離脱しました。

 このようにオバマ大統領を否定してきたトランプ大統領ですが、まだオバマ大統領にかなわない点がひとつあります。それはノーベル平和賞です。オバマ大統領は核廃絶を目指すというチェコでの演説が評価されて2009年にノーベル平和賞を受賞しています。トランプ大統領としては、停戦を実現させてノーベル平和賞を受賞すれば、オバマ大統領を完全に超えると思っているのでしょう。というのも、過去に停戦を仲介してノーベル平和賞を受賞している大統領がいるからです。それがセオドア・ルーズベルトです。

 彼は日本の要請を受けて日露戦争の仲介に乗り出し、1905年、アメリカのポーツマスで行われた日露の講和会議で停戦を決めるポーツマス条約締結を実現させ、翌年ノーベル平和賞を受賞しています。

 今回も停戦をまとめればノーベル平和賞が見えてくるというわけです。さながら「ポーツマス2.0」の実現でしょうか。

 停戦を実現させるためには双方の妥協が必要になりますが、これは難しいこと。それならロシアとの間で停戦案をまとめてウクライナに押し付けるのが一番の早道と考えているのでしょう。

 それにしてもロシアのプーチン大統領への配慮(忖度)ぶりには度肝を抜かれます(どぎもをぬかれます)。この戦争はウクライナが始めたと言ってのけ、ロシアを免罪したからです。たしかにロシアとウクライナの間で2014年に始まった紛争をめぐっては、ドイツのメルケル首相などが尽力して「ミンスク合意」や「ミンスク2」がまとめられましたが、その後ウクライナが合意を履行していないという批判があります。しかし、そもそも2022年2月に大戦車部隊でウクライナに軍事侵攻を開始したのはロシアですから、「ウクライナが戦争を始めた」との発言には世界があっけにとられました。

「ミュンヘン会談」の教訓は?

 さらにトランプ大統領が、ウクライナのゼレンスキー大統領のことを「選挙を経ていない独裁者」と決めつけたことも驚きです。ウクライナは軍事侵攻を受けて戦時体制を導入。関連法の規定で大統領選挙を延期しているだけですから違法ではありません。「独裁者」というならプーチン大統領の方だと思うのですが、記者団に「独裁者という表現をプーチン大統領にも使うのか」と問われたトランプ大統領は「そのような言葉を軽々しく(かるがるしく)使わない」と答えています。ゼレンスキー大統領には軽々しく使っているように見えるのですが。

 トランプ大統領が停戦に前のめりになっていることに関しては、「ミュンヘン2.0」となる恐れが指摘されるようになっています。

 時は1938年3月のこと。当時のドイツのヒトラーはオーストリアを併合します。オーストリアにもナチスの信奉者勢力があり、ドイツへの併合を求めていたからです。

 さらにチェコスロバキアのズデーテン地方にドイツ人が多く住んでいることを理由にドイツへの割譲を迫ったのです。

 ウクライナ東南部にはロシア語話者(ろしあごわしゃ)が多いことを理由にプーチン大統領は東南部4州の併合を強行しました。なんだか似ていると思いませんか。

 当時ドイツの要求に対し、同年9月、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの4か国の首脳がドイツのミュンヘンに集まって善後策(ぜんごさく)を協議しました。この会議はズデーテン地方の割譲の話にもかかわらず、当事国のチェコスロバキアは会議に招かれませんでした。

 この席上、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相は、ヒトラーの要求を拒否すると戦争になると恐れ、要求を呑んでズデーテン地方の割譲を認める解決案を提案。フランスも渋々(しぶしぶ)これを認め、チェコスロバキアの運命が決まりました。

 今回も、ロシアとウクライナの戦争なのに、トランプ大統領はウクライナ抜きにロシアとの間で停戦案を話し合っています。プーチン大統領への配慮を忘れないトランプ大統領のことですから、結局、プーチンの要求を大枠(おおわく)で認め、ウクライナに押し付けることでしょう。

 当時チェンバレン首相は「戦争を未然に防いだ」として喝采(かっさい)を浴びたのですが、ドイツへの宥和(ゆうわ)姿勢は裏目に出ました。これで調子に乗ったヒトラーは翌年3月、チェコスロバキアのうちチェコを軍事占領して保護領とし、スロバキアを独立させてドイツの影響下に置いたのです。

 さらに同年9月、ポーランドに侵攻。ポーランドと同盟関係にあったイギリスとフランスがドイツに宣戦布告。第二次世界大戦に発展しました。かつての失敗を知っているヨーロッパ各国としては、ロシアの言い分を認める宥和策は、ロシアを付け上がらせ(つけあがらせ)、ウクライナ全土を占領する誘惑に駆られるのではないかと恐れているのです。これが「ミュンヘン2.0」と呼ばれているのです。