「週刊文春」編集部 2024/08/07

《秋篠宮家の帝王教育は大丈夫か?》筑附で「異例の成績」悠仁さま(17)の“真実”

 9月には成年となられる悠仁さま。高校3年生の今、大学受験に向けた準備の只中にあるとされる。そんな悠仁さまをめぐり、衝撃的な証言がもたらされた。次代の天皇・悠仁(ひさひと)さまの帝王教育に、何が起きているのか――。

▶︎東大 毎年20名超 筑附で「授業についていくのが…」

▶︎人体の絵に関心、トンボは好きだが蛍は「つまらない」

▶︎高校生 サザン演奏でご夫妻&悠仁さま「手拍子バラバラ」

▶︎保阪正康(ほさか まさやす)が諫言「天皇に受験勉強は必要ない。悠仁さまの教育は迷走している」

「ようこそ、岐阜へ!」

「秋篠宮皇嗣殿下(あきしののみや こうしでんか)、バンザーイ!」

 玉のような汗が浮かぶ首筋をハンカチで拭いながら、群衆は炎天下を耐えていた。蝉の合唱(がっしょう)が響く岐阜羽島駅(ぎふはしまえき)の北口ロータリー。36度近い気温の中、声が響く。

 人々の視線が一斉に注がれる先、黒いアルファードの車内に、秋篠宮ご一家の姿があった。皇位継承順位第1位と第2位のお二人が同乗しているとあって、車と群衆との距離は遠い。

 それでも、開いた車窓に差しこんだ真夏の陽光が、弾ける笑顔の紀子さま(57)と、その奥で柔らかな笑みをのぞかせる秋篠宮(58)を照らし出した。だが、後列の座席の窓際に座られる長男の悠仁さま(17)の傍らの窓は固く閉ざされている。スモークがかかった窓越しでは、その表情を窺い知ることはできなかった。

 9月6日に18歳の誕生日を迎え、男性皇族で秋篠宮以来、39年ぶりに成年となられる悠仁さま。その近辺がにわかに騒がしい。

「成人で執り行われる『成年式』は受験生であることを考慮し、来年3月の高校ご卒業以降に行われます。これに関し、宮内庁長官が7月の定例会見で、悠仁さまは宮中行事などにも成年式後までご出席されないが、『園遊会などには成年式以前であっても参加される可能性がある』とも説明した。これが“今秋の園遊会に参加して存在感をアピールしたいのか”と注目を集めてしまった」(宮内庁担当記者)

 そんな中、秋篠宮ご夫妻と悠仁さまは7月31日から1泊2日の日程で岐阜県を訪問された。全国高等学校総合文化祭(総文祭)へのご臨席のためだ。

「総文祭は文化部のインターハイともいわれ、美術・工芸部門や吹奏楽部門などで全国から各都道府県を代表する学生が集まり、その成果を披露します。悠仁さまは中学2年生のころから臨席されており、今回が4回目のご臨席でした」(同前)

岐阜県を訪問された悠仁さま 2024-08-16−悠仁親王.png

 初日、開会式後のパレードでは、こんな姿が目撃されていた。参加者が語る。

「来賓(らいひん)テントでご一家がパレードをご覧になっていました。神奈川県から参加した高校がサザンオールスターズの『勝手にシンドバッド』を演奏すると、秋篠宮さまと紀子さまが『あ、サザンだ!』とばかりに反応していらっしゃった」

 来賓テントでも手拍子が沸き起こった。

「紀子さまは高校生の振り付けにあわせて、1人だけ溜めのあるリズムで手拍子をされており、他の参加者からは『紀子さま可愛い〜』と声があがっていました。一方、秋篠宮さまと悠仁さまは裏拍(うらひょうし)をとったり、小刻みにリズムをとったりされていて、手拍子がバラバラでした」(同前)

2024-08-16−悠仁親王-01.png

 美術・工芸部門の展示の見学では、岐阜県の高校生が描いた自画像にオモチャのあひるが描かれているのを目に留めたご一家が、

「これ、お風呂に浮かべるやつだよね?」

「そうそう!」

 と口々に仰り、笑いあっておられたという。

「作者である高校生も『そうです、そうです!』と会話に参加していました。悠仁さまは昨年も、鹿児島で開催された総文祭に秋篠宮さまと2人で参加されましたが、その時と比べて、今回は参加者との会話も多く、話も弾んでいた。今年は紀子さまがおられたからだと思います」(総文祭を担当する文化庁関係者)

 ご一家は目に留まった作品を自由に鑑賞して回られた。 2024-08-16−悠仁親王-02.png

総文祭で美術・工芸部門をご見学

「悠仁さまからもっと離れて」

「てっきり悠仁さまは昆虫の絵画などに関心を示されるのかと思いきや、多様な作品に興味を持たれていた。とくに関心を寄せておられたのは、人体の指や内臓をモチーフに、ペンで細密に描きこまれた抽象画のような作品でした」(同前)

 そんな悠仁さまは筑波大学附属高校の3年生。高校生活もラストスパートだが、小誌は6月下旬、その1コマを目撃している。

 下校時刻、校門からじゃれあいながら出てくる男子高校生4人組。Tシャツ姿のラフな格好で輪の中心におられたのは悠仁さまだ。1人の生徒が悠仁さまを親しげに小突くと、悠仁さまは笑顔に。そのお姿は、青春を謳歌(おうか)する1人の男子高校生そのものだった。

 そんな悠仁さまにご両親は、「普通の学校生活を送ってほしい」と望んでおられるという。そのため、こうした登下校をめぐっても、警備を担当する警察側との攻防があった。前出の記者が語る。

「ご入学にあたり当初は、悠仁さまが車に乗ったまま高校の敷地内に入る案で固まりかけていた。しかし秋篠宮家のご意向で、校舎の近くで下車し、徒歩で校内へ向かわれることに。校内に監視カメラの導入も検討されていましたが、秋篠宮家が難色を示され、見送られました」

 さらに、常に皇族がたの身の安全を守る側衛たちにも、こんなリクエストがあったという。

「秋篠宮家は一貫して『警備を緩めてほしい』というご意向。その一環として、警備を担当する側衛に対し『悠仁さまからもっと離れてほしい』と要望があったのです。もともと側衛(そばえい)は悠仁さまと一定の距離を保っていますが、ご要望の結果、所定の距離から2倍離れることになりました」(同前)

 ご進学から2年余。こうしたご様子からは、普通の高校生活を送ってほしいという親心に応えるかのように、生き生きと高校生活を送られる悠仁さまのお姿が浮かび上がってくる。

 だが――。小誌は今回、筑附高の関係者から、衝撃的な証言を得た。

「じつは高校側は、悠仁さまに頭を悩ませている。警備計画のことだけではありません。目下(もっか)の問題は、学業成績についてです。悠仁さまは、率直に申し上げて“異例の成績”なのです」

理解力を測るテストの点数が

 悠仁さまはこれまで、熱心に勉強に取り組んでおられるとされてきた。秋篠宮も昨年の誕生日会見で、「学校以外の多くの時間を机の前に座っている」と言及しておられる。だが、その内情は明らかにされたことはなかった。

 前出の筑附高関係者が語る。

「比較的お得意な科目は生物。授業でもトンボの研究発表を披露したことがあるほどです」

 悠仁さまは「赤坂御用地のトンボ相」と題した論文を執筆するなど、トンボに関心を寄せておられることで知られる。6歳のころからトンボ研究に取り組んでこられた悠仁さまだが、昆虫であれば何でもお好きというわけではないらしい。

「小学校中学年のころ、悠仁さまが皇居へ蛍を見に来られたことがあります。じつは皇居は蛍の群生地。多い年だと、映画『火垂るの墓』のように、あたり一面に蛍が舞う。昭和天皇のご意向を受けた職員たちが繁殖を続け、3カ所ほど蛍が見られるスポットがある。悠仁さまがここを訪ねたいと仰ったのです」(宮内庁関係者)

 だが、悠仁さまが訪問された際、観測スポットの1カ所目には、数えるほどしか蛍がいなかった。

「すると悠仁さまは『つまらない』と仰り、残る2カ所をご覧にならずに帰ってしまわれた」(同前)

 それでも生き物への飽くなきご関心が、生物の成績に結びついているようだ。ところが、前出の筑附高関係者は声を潜める。

「生物を除いては、文系科目も理数系科目も成績が伸び悩んでおられる。理解力を測るテストの点数が芳しくないと聞いています。筑附高では平均点も非公開で順位も明かされないため、同級生ですら彼の成績を知る生徒は限られる。ただ、この成績だと授業についていくのは難しく、ご本人も苦しい気持ちを抱えておられるのではないか」

 そもそも筑附(つくふ)は超進学校として知られる。過去5年にわたって毎年20人を超える東大合格者を輩出し、偏差値は67。男女共学校では全国でもトップクラスだ。「浪人してでも東大や京大を目指す生徒が多い」(筑附OB)という。

 悠仁さまは、そんな筑附に提携校進学制度を利用して入学された。戦後の男性皇族で学習院以外の高校に進学された初めてのケースだった。加えて、筑附への進学は、その後の大学進学にあたって本格的な入試に臨まれることを意味した。あらゆる点で異例の道のりを歩んでこられたのだ。

 そんな悠仁さまに浮上した学力問題。これに対し、昭和史研究の第一人者でノンフィクション作家の保阪正康(ほさか まさやす )氏はこう“諫言”するのだ。

「天皇に受験勉強は必要ありません。それ以前に、悠仁さまにはもっと学ぶべきことが沢山あるはずです」

 保阪氏は上皇上皇后と複数回にわたり面会し、昭和史関連の対話を重ねてきた。

「上皇陛下とお話しして感じたのは、かつて天皇の名において行われたことに対する責任をどこまで自覚すればいいのか、悩んでおられるということ。その最たる(さいたる)例が戦争の責任でした。そういった問いかけを直接されることはありませんでしたが、昭和天皇の時代に起こったことをどう引き受けるべきか、その悩みは伝わってきた。このように、天皇となった人物にしかわからない苦悩がある。

 それを考えれば、偏差値を競わせたり(きそわせたり)、受験勉強を要求するのは、悠仁さまにとっては過重な期待をかけることだと思います。それよりも大切なのは、天皇の役割を勉強すること。それは東大に入るよりもはるかに難しいことなのです」

上皇上皇后とも対話を重ねてきた保阪氏

 上皇は戦後、アメリカ人であるヴァイニング夫人から世界でも通用する視野を、慶應義塾塾長だった小泉信三から君主としての心構えを教わった。天皇は学習院高等科のころから、父である上皇とともに歴代天皇の事績を学んでこられた。

 かたや悠仁さまの帝王教育を見てみると、「受験」が大きな影響を与えているのが分かる。中学時代、展示のご見学やご進講をお受けになるといったご活動に積極的だった悠仁さまだが、中学3年生の高校受験期になって、その回数が激減していたのだ。

 例えば2019年、中学1年生のころには、沖縄協会会長からのご進講をはじめ、ブータン訪問など、9件の対外的なご活動に取り組んでおられる。翌年も、コロナの影響でオンラインではあるものの、全国盲ろう者協会理事のご進講など5件のご活動に関わった。だが中3になられると、宮内庁職員へのご会釈(えしゃく)などはなさっているものの、対外的なご活動には一切取り組まれてはいない。

「悠仁さまが利用された提携校進学制度は、学力検査の結果も考慮される。そのため悠仁さまは中学3年生のころにも勉強に励んでおられた。この期間は、皇族としてのご活動よりも学業優先になったのでしょう」(前出・宮内庁関係者)

 将来の天皇にとって必ずしも必要とは言えない、受験による競争。さらに、秋篠宮ご夫妻がこれまでなさってきた悠仁さまへの“帝王教育”を振り返ると、ある1つの特徴が浮かび上がる。「一貫性のなさ」だ。

“慰霊の使者”との面会をスルー  小学生のころの悠仁さまのご活動を分析すると、先の戦争について学ぼうとなさる取り組みが多い。小学校1年生のときに私的旅行で沖縄、4年生で長崎、6年生で広島をご訪問。また、5年生で紀子さまとともに訪問された小笠原諸島でも、戦争の傷跡に触れられている。

 小笠原諸島といえば、硫黄島が太平洋戦争の激戦地となり、1994年には上皇も慰霊に訪れた土地だ。悠仁さまご訪問時に案内役を務めた、小笠原村の渋谷正昭村長(当時副村長)が語る。

「事前に行程の相談をしたところ、先方から『戦没者追悼碑があるようなのでお参りしたい』とのご要望があった。到着後、昼食をとってからすぐに慰霊碑に献花をされました。上皇さまも昭和天皇も小笠原に来られたことをお伝えしたら、悠仁さまはご存じだった」

 4泊5日の小笠原訪問の中ではシュノーケリング体験もなさった悠仁さま。紀子さまも一緒にシュノーケリングをなさるなど、悠仁さまにぴたりと寄り添っておられたという。

「こういった平和教育は、紀子さまのご意向だったとみられます。悠仁さまは小6のときには、昭和史研究で知られた作家の故・半藤一利氏を宮邸に招き、『戦争はなぜ起きたのか』について話をお聞きになった。半藤氏の講義はその日の一度きりでしたが、紀子さまは『また来てほしい』と仰っていた」(前出・宮内庁関係者)

 ところが中学以降、こうしたご活動がぱったり見られなくなる。さらに最近、象徴的な出来事があった。

「8月2日、『沖縄豆記者』が赤坂御用地を訪問し、秋篠宮ご夫妻と面会した。コロナを経て5年ぶりとなる面会でした。ですが、5年前には懇談の場に同席されていた悠仁さまが、今回は同席されなかったのです」(同前)

2019年の豆記者との面会には悠仁さまも同席されたが…  豆記者は沖縄の小中学生が記者の仕事を体験する事業で、1962年に本土と沖縄の交流を目的に始まった歴史がある。

「沖縄との向き合い方は皇族にとって非常に重要。とくに長らく沖縄に真剣に向き合ってきた上皇陛下は、沖縄への理解を深めるために皇太子時代に豆記者との面会を始められ、対話を重視してこられました。豆記者との面会は平成の時代に現在の天皇皇后両陛下に引き継がれ、お代替わりを経て秋篠宮ご夫妻にバトンが渡されました」(名古屋大学大学院准教授の河西秀哉氏)

 皇室にとっていわば“慰霊の使者”でもあった豆記者。だが、5年ぶりとなる今回の面会に、悠仁さまのお姿はなかった。河西氏が言う。

「上皇陛下は“昭和天皇の時代に起きた戦争をどう清算していくのか”という課題に取り組んでこられた。その思いは天皇陛下にも引き継がれている。2022年の沖縄復帰50周年記念式典では、『本土復帰の日に両親とニュースを見たことを覚えている』と語られ、上皇から沖縄への思いを受け継いでおられることを強調されました。そこから、次世代の天皇である悠仁さまが顔をそむけるわけにはいきません。悠仁さまは学業でお忙しかったのかもしれませんが、今回の豆記者との面会には出席されたほうがよかったと思います」

歴代天皇は戦争や沖縄に向き合ってこられた  一時期まで平和教育を主導されてきた紀子さま。これに対して秋篠宮は折に触れ、「全国のいろいろな文化を見せたい」という趣旨の発言をされてきた。

 実際に秋篠宮は、悠仁さまと全国各地へお忍び旅行をされている。その一例が、昨年4月の熊本県への私的旅行だ。

「秋篠宮ご夫妻と悠仁さまは山岳地帯にある五木村をご訪問。民族学の専門誌でも紹介された経験のある、焼畑農業に携わる90代の高齢女性に会い、彼女と一緒に散策されながら焼畑についての話をお聞きになったと報じられました」(前出・記者)

 全国各地に根付く文化やそこで暮らす人々の生の声を聞くことが、秋篠宮流の帝王教育なのかもしれない。だが、実際にこの集落で焼畑農業に携わる90代女性は、小誌にこう語る。

「悠仁さまたちは10人くらいで突然来なったね。村のもんも『こんにちは』くらいで、焼畑のことも聞きもされんかったね。話しかけられたりも何もなかった。どんなところかと思って黙って見に来て帰られただけじゃったですよ」

帝王教育の方向性がバラバラ  静岡福祉大名誉教授の小田部雄次氏が首を傾げる。

「全国を通り一遍に見て回っても、帝王学が身に付くとは思えません。自分たちは一般の人々とは違う、なぜ特別にならざるを得ないのか、ということを理解し、一般の人たちと交流するノウハウを身に付けることが帝王学。人々の日々の苦労を体験することはできなくても、人々の暮らしに目をやって心が動く、そのことが大事なのです」

 前出の保阪氏も言う。

「悠仁さまの教育は迷走していると言わざるを得ません。本来、天皇教育は、宮内庁が基本方針を決めて行うべきもの。ですが今、宮内庁が統一された方針のもとで悠仁さまの教育にあたっているとは思えない。結局、紀子さまお一人がやきもきしておられ、結果として方向性がバラバラになっているように見受けられます。そのため、次の世代の天皇のイメージが全く浮かんでこないのです」

 こうした状況には、秋篠宮の影響も大きいという。

「皇位継承順位第2位の立場である弟宮には、本来、大変な苦悩がある。『天皇になるかもしれないけれど、なれると思うな』と、矛盾に満ちた教育を受けるわけですから。しかし秋篠宮殿下は、そんな苦悩からは超越しておられるように見える。あくまで“果たすべき役割があれば果たすが、あとは自由にやる”という姿勢を貫かれているように感じます。悠仁さまの教育においても同じです。宮内庁が秋篠宮殿下の“果たすべき役割”を固められていないことで、今の混乱した状況を招いていると思います」(同前)

秋篠宮ご夫妻の教育方針は…  迷走する帝王教育のもと、大学受験に挑もうとされている悠仁さま。根強く囁かれるのが東大への推薦入学説だ。

「東大は16年度から推薦入試制度を導入した。推薦では筆記試験の結果のみならず、在学中に執筆した論文や社会貢献活動の実績などが総合的に評価されます。推薦といえど共通試験の受験が必須で、8割程度の正答率が求められるといわれています」(前出・記者)

 実際に悠仁さまはどの大学を志望しておられるのか。

「いまはまだ明確に志望先の大学名があがっていない。秋篠宮さまは、進学先としてしばしば取り沙汰される農学部に限らず、幅広い学問にふれられる学部がよいとお考えのようですが、結局は本人の希望を尊重される構え。この夏には志望校が固まるのではないか」(秋篠宮家関係者)

 宮内庁に悠仁さまの学業状況や警備、蛍見学の件などの事実関係を尋ねたが、「お答えは差し控える」との回答だった。

 この国の未来を担われる17歳の青年が、いかなる道を歩まれるのか。それはわれわれ国民にとって、いかなる天皇像を望むのかという問いでもある。