2025年3月25日 5時00分

さくらの色

 この季節になると、中学の教科書で読んだ逸話(いつわ)を思い出す。春を告げる桜は、花だけでなく幹(みき)の中までピンクに染まっている。そんな話だった。あれは誰が書いたのだろう。40年ぶりに調べ、詩人(しじん)の大岡信(おおおか のぶ)さんの文章にたどりついた▼京都を訪ねた大岡さんは、上気したような美しい色の着物を目にする。桜で染めたものだと染織家(せんしょくか)の志村ふくみさんに教えられ、可憐(かれん)な花びらを煮詰めたのだろうと思い込む。実際は、ごつごつした樹皮(じゅひ)から取り出した色だった。そして開花の直前でないと、この色は出せないと聞く▼大岡さんは不思議な感じに襲われた。桜が「木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡(のうり)にゆらめいたからである」(「言葉の力」)▼東京・九段の靖国神社(やすくにじんじゃ)でソメイヨシノが咲き、都心でも開花が発表された。境内(けいだい(の多くのつぼみは、口紅をさしたように先端だけをほんのりと染め、まだ青かった。しかし幹の中では、濃密な桜の精がとうとうと流れている。そんな幻(まぼろし)が目の奥に浮かんだ▼思春期の自分に先の話が刻まれたのは、見えない生命の神秘に感動したからだろう。思いは、いまも変わらない。年齢を重ねて少しだけ付け加えるなら、人も桜のようであれば、ということである▼冬の間に色を生む力を桜が蓄えるように、苦しい(くるしい)時に自分の中に何かを蓄える。いつか花開く時(はなひらくとき)は来る。風に揺れるつぼみを見ていたら、そう信じられるような気がした。桜前線が列島を染めていく。