豚肉はなぜイスラム教でタブーなのか 食べてはいけない理由、中東で暮らして考えた
ピラミッドの建設労働者らに愛飲されたビールの発祥は、古代メソポタミア(現在のイラクの一部)か、古代エジプトとの説が有力だ。ところが、7世紀に食物戒律を持つイスラム教が誕生したことで、中東ではアルコールは徐々に脇に追いやられ、豚肉食もタブーとなった。中東料理は、イスラム教の教えが規定する面が強く、中東に長く滞在したり、暮らしたりした者の多くは、ジューシーな豚肉を食べたいという思いに駆られたことが一度はあるはずだ。現地に暮らして豚肉事情を考えてみた。
「不浄の動物」で嫌悪感
英国に住んでいた時のことだ。あるイスラム教徒の友人が、イギリス人に「あんなに美味しい豚肉を食べないなんて、あなたは人生で随分損をしているよね」と言い放たれたと言うのを聞いた。イギリス人も豚が好物という人は多い。私も同感だが、敬虔(けい‐けん)なイスラム教徒にこんなことを言ってはちょっと失礼かもしれない。
そのイスラム信徒の友人は、厳格には戒律を守らない世俗派。だが、豚肉に関してはなんとなく食べる気がしないのだという。というのも、イスラム教徒は、豚は「不浄(ふじょう)の動物」と言い聞かされて育っているためだ。
中東などでは、 豚の飼育環境が必ずしも衛生的とは言えず、非イスラム教徒のキリスト教徒などでも、ある種の嫌悪感を抱く人は多い。
駐在員が中東で豚肉を食べるには
中東はイスラムを信奉し、アラビア語を話す人が多数派であることから、食文化の傾向は似通って(にかよって)いて、豚肉料理はほとんど存在しない。
それでも、各国の料理はバリエーション豊かで、レバノンやパレスチナ、エジプトなどには、豚肉食がNGではないキリスト教徒やコプト教徒も一定数存在することから、豚肉を売る店はひっそりと街中に存在する。
ただ、少数派が多数派の動向を無視して生活するのは、なかなか難しい。
エジプトでは、豚肉屋は英語でひっそりと看板を掲げ、買った品物は、黒いビニール袋に包まれる。なんだか、豚肉を買いにいくだけで、疚しい(やましい)気分になってくる。
トンカツやカツ丼、豚のしょうが焼き、豚肉が入った餃子は、中東に暮らす日本人にとって、晴れの日のごちそうのような存在。筆者は中東に約10年暮らしたが、現地に暮らす日本人たちが食べ物でよく話題にするのは、トンカツやしょうが焼きへの熱い想い。
エジプトの首都カイロの日本料理店や韓国料理店には、豚肉を使ったメニューもあったが、一時帰国の際には、日本の味覚であるトンカツに舌鼓(したつづみ)を打つのがお決まりだった。
イスラエルもユダヤ人は基本的に豚肉を食べないが、ロシアから移民してきた人々を中心に、アラブ諸国よりも豚肉には寛容だ。世界を行き来する人々や世俗派が多い商都テルアビブでは、堂々と豚肉のメニューを掲げているレストランも目立つが、それでも豚肉を出す飲食店は少ない。
豚肉食禁止の科学的根拠は
こんな豚がなぜ、イスラム教では毛嫌い(けぎらい)されなければならないのか。イスラム信徒にとっては、豚は汚らわしい(けがらわしい動物に他ならない。その肉を食べることはとんでもない蛮行に相当する。
筆者は世界各地で暮らす多くのイスラム教徒に豚について聞いてきた。「汚い動物であり、絶対に食べない」という答えがほぼ異口同音(いくどうおん)に返ってきた。
ただ、こうした豚に対する汚名(おめい)は大きな誤解であり、科学的な根拠を欠く判断とは言えまいか。筆者が育った相模(さがみ)、現在の神奈川の県央部は歴史的に養豚業(ようとんじょう)が盛んだ。豚のえさとなるサツマイモが多く収穫されたこととも関係がある。
そこで知り合った養豚業者によると、豚は本来、清潔好きな動物だという。「汚い」というイメージは、人間が汚い環境で飼育していることに問題がある場合が多い。
そもそもイスラム教徒に豚が不浄な動物と名指しされる根拠は、どこに存在するのだろうか。聖典コーランの2章173節には、食べることを禁じられるものは、死肉、血、豚肉、およびアッラー以外の名で供えられたものとの記述がある。
コーランが「神の言葉」として絶対的な原則であるイスラム教徒にとって、宗教的に禁じられている豚肉食に疑問を差し挟む理由は全く存在しない。コーランに書かれていることで、食べないことの十分な理由付けになる。汚らわしいという心理的な理由は、異教徒に説明する際の後付けにすぎない。
では、豚食を禁じる宗教的判断の背景に、科学的な根拠はあるのだろうか。豚は穀物を食べる動物である。イスラム教徒が食べてもいいとされる牛や羊、ヤギは草を食べて育つ。
砂漠という厳しい環境下で生まれたイスラム教において、人間と食べ物が競合する豚を増やさないという発想は利にかなっているとの説も唱えられたが、草や木の芽を羊やヤギが食べ、中東の砂漠化に拍車がかかった面もある。
火を十分に通さないと衛生的に問題が生じる豚肉を禁じたのも、イスラム教が形成された当時の生活環境に配慮したものかもしれない。ただ、イスラム教は豚肉食文化圏であるアジア地域にも拡大しているうえ、衛生状態が格段に向上した現代において、豚食を禁じる理由はあまりない。